3. 国分寺のなぞ

 かって奈良時代に国分寺が国ごとに造られた。そのことは誰でも知っている。 だが、その寺は今どうなっているか?残っているのか?このことを知ってい る人は案外少ない。ましてその本尊は何か?それを知る人はなお少ない。

1、国分寺は過去の遺物か?
大抵の本は国分寺は奈良時代に国家によってつくられ、律令制の衰退とともに滅び去ったものとしています。しかしそれは誤りです。
 (表1)を見て下さい。 この表は現在国分寺を名乗る寺、或はもとの国分寺の跡に建っている寺についてのデータを一覧表にまとめたものです。
 記録によれば国分寺は全国に建てられたことになっていますから、全国68カ 国、大和を除いて67カ寺が建立されたはずであります。この表で、今国分寺という名の寺が48あります。もとの国分寺の跡に建っている寺、或は国分寺のお堂、薬師堂ということで現存するものが5ある。両者あわせて53が何らかの形で残っている。摂津は国分寺という名の寺が長柄と天王寺とに二つありますので、このダブリを除くと52であります。つまり68のうち52が残っている。 残存率実に76.5%であります。これだけたくさんの寺が残っているというこ とは大変なことであります。確かに天平時代創建の頃の建物が残っているわけで はありません。規模もうんと小さくなっていて、中には辛うじて小さなお堂、それも朽ちかけているというものもあります。組織や運営基盤も昔とは全く違います。 しかし、日本の古い寺で、創建当時の建物がそのままに残っているという寺があるでしょうか?組織や運営基盤が昔のままという寺がありますか?
  一例をあげましょう。東大寺の大仏殿は何回も火事で焼けています。大仏様も首 から上は天平仏ではないのです。東大寺の組織、運営基盤は創建の頃のままではありません。しかし、人々は誰も東大寺を天平時代の遺物だとは考えていませんし、学者でもそうは言ってないようです。
  同様なことが国分寺の場合にも言えるはずです。建物は創建時のものではない し、運営基盤も変わったけれども、国分寺ということで、その大部分は法燈を守 り続けて来たのです。この事実は十分評価すべきだと私は思うのです。しかるにその建物が貧弱なせいか、地方的なせいか、天平時代の遺物ときめつけられ、国分寺を現代に至る歴史の連続性の上でとらえられていません。私はこれはおかしいと思うのです。
 それでは、これらの寺はどのように維持されて来たのか? ということが、次の問題であります。
  律令制の衰退とともに、国からの財政的或は人的支援は少なくなって行きます。 鎌倉期に幕府は若干の援護をやっていますが、時代を下るに従って「公」の援護 は途絶えて行きます。一方、兵火や災難で損壊することが多くなっています。このような情勢の中で国分寺は地元の有力者や有徳の僧の力、民衆の手で復興さ れ、維持されて来たと考えられます。
 国分寺は国家鎮護を目的とし、地方への仏教布教の目的をもってつくられた、極めて国家的、政策的なものとされていま すが、律令制の衰退、国家権力の衰微とともに、その国家的、政策的なものは後退し、皮肉にも地元の支持により、地元の信仰の対象として、仏教の地方への浸透の役割を果していったものと考えられるのです。

2、現国分寺の本尊の多くは薬師如来である
ところで、これら現在残っている国分寺に本尊として祭られている仏像の多くは 薬師仏であり、本尊でなくとも大事な仏像として薬師仏が祭られている。これは国分寺についての大きな謎であります。
  (表1)を見て下さい。この表で薬師如来を本尊にしているものと、収蔵しているものとで、50あります。
  薬師如来があるかどうかは未確認だが、薬師堂がある所が(薬師仏が祭られていた可能性がある)あり、上記とあわせて51であります。
  ところで、このデータを見て皆さん奇異に感じられませんか?
 国分寺について少しでも知識のある方なら誰でも知っているように、「総国分寺としての奈良の東大寺の本尊は、大仏である盧舎那仏であり、各地の国分寺には、釈迦仏、釈迦三尊が祀られた」という歴史事実があることであります。聖武天皇の「国分寺造立の詔勅」によれば、「去歳普く天下をして釈迦牟尼の尊像、 高さ一丈六尺なるもの各一鋪を造り、並びに大般若経各一部を写さしむ」云々。 とあります。これは天平13年(西暦741年)のことであります。
 つまり、各国の国分寺の本尊はこの詔勅によれば釈迦仏であるべきはずであり ます。ところが、実際に現存する国分寺の本尊の多くは薬師如来である。本尊でなくとも薬師如来を祀っているところが多い。
 これはどう考えたらいいのか?
  私はこのデータを作ったはじめには、こう思いました。詔勅では釈迦仏を祀れとあるが、実際には釈迦仏は祀られなくて、薬師如来を祀ったのではないかと。命令と実際とが違うことはよくあることなので、一部に釈迦仏を祀ったが、あとは 薬師仏にしたことは十分考えられる事です。しかし、この考え方は証拠がない。 それと次の二点がわかり、今は考えを変えています。
 それは、天平仏だと思われる丈六の釈迦仏が現淡路国分寺(現在の兵庫県淡路島にある)に残っていることであります。ここのお堂は別名釈迦堂といいまして、2メートル90もある立派な釈迦如来像を祀っています。この仏像にはうしろに、暦應3年という銘があり、この年号は南北朝時代の北朝のもので、この年 は後醍醐天皇がなくなられた年の翌年に当たります。従って室町時代の初期のものといった方がよいのですが、地元では、それは、修理した時を記したのであって、本当は古いもので天平時代の作であるという説を強く信じています。もしそうだとすると、奈良時代国分寺創建の時の仏像がただ一つ残って居たということになるのであります。
 実は、釈迦仏を祀つる国分寺はこの他にも3カ所あります。尾張、若狭及び越後です。これらについては言及を省きますが、いづれも後から造られたもの、或は他処から移されたもので、淡路の例とは違います。
 ついでに言いますと、現国分寺所蔵の仏像で国宝または重要文化財であるもの を拾いますと次ぎの通りです。

釈迦如来 尾張、淡路
薬師如来 美濃、飛騨、若狭、佐渡、土佐、筑前
観世音菩薩 飛騨、讃岐
阿弥陀如来 周防
日光、月光菩薩 同上
四天王 同上
不動明王 長門

  それから、上野国分寺の仏像などの修理の記録が残って居ます。それは、平安時代の記録ですが、その中に、釈迦仏のどこがこわれたから、どのように修理した、ということが書いてある。ということは平安時代のその時期まで、上野国分寺には釈迦仏があったということですから、創建当時造立され、所蔵されていたと考えてもいいでしょう。そこで、淡路と上野の2カ国に釈迦仏があったことは ほぼ確実といえますから、やはり詔勅どうりに各地の国分寺に釈迦仏が祀つられていたと考えるべきだと思います。
 次の考え方としては、釈迦仏が各地の国分寺に祀つられたが、同時に薬師仏も祀つられたのではないかということです。年表によれば天平17年の項に、「薬師仏7体をつくらせた」とあります。これを、どこへ仕向けたのかはわかりませんが、この時期に国分寺に薬師仏を祀つらせたことはあるようです。
 それにしても、全国の国分寺に釈迦仏が祀つられていたとすれば、68あるはずであり、そのうちのかなりのものが残っていてもいいはずなのに、わずかに4 というのは淋しい限りであります。その代わり、創建当時7体祀つられた薬師仏が今52の寺で祀つられている。
 この事実は何か意味があるのではないか、ということであります。その意味を どう考えたらいいのかのか、ということが問題提起であります。
 この点は学者も気付いていまして、或学者は、薬師仏を祀つることが伝統になったのだと言って居ます。しかし何故そういう伝統になったのか、伝統なら釈迦仏を祀つるべきであり、薬師仏を祀つるということは、その伝統が変わったことであり、その理由がなくてはなりません。ところがその点については何ら触れるところがない。また或学者は、薬師仏は病気平癒祈願の仏で、現世利益を求める民衆の欣求に合致したから祀つられたのだといっています。しかし、それが何故どの国分寺も薬師仏なのか。もっとバライエティがあってもいいのではない か。現世利益のための仏像なら、他にも、大日如来、観世音菩薩、地蔵菩薩、不動明王など、たくさんの種類の仏像があります。それにもかかわらず、何故薬師 仏だけに限定されたのか?そしてもっと重要な点は、聖武天皇の国分寺造立の詔勅に示されて居る釈迦仏を祀つることの意義、金光明最勝経を転読する目的、そういう崇高な目標は、どうなったのか?その釈迦仏は何故捨てられたのか?
 もし釈迦仏から薬師仏に代えられたのなら、その理由は何か?その契機は何 か?統一的な意志、政策的配慮が加わったのか?或は偶然か?次元を低く考えれば、近世江戸で流行神として稲荷神を祭ることがはやったように、いつの時期か薬師仏を祭ることが流行した名残なのか?

3、庶民とのかかりあい
ここで国分寺と庶民とのかかりあい、また個々の国分寺の特徴的なことについて、少し述べます。
 (表1)をまた見て下さい。この表で、墓地があるかないかですが、私が確認 したところでは、墓地のある寺は20あります。墓地というのは、寺にとって大事なもので、檀家があるということと同時に、庶民、地元民とのかかりあいを知る目安になります。葬式仏教などと悪口をいう人がいますが、宗教にとって「死 を見詰める」死を扱うということは、重要な要素だと思います。葬式も扱えないような寺は、庶民から遊離し、地元民とのかかりあいも薄いと考えざるを得ません。現国分寺のうち、20以上も墓地を持つ寺があることは、それだけ庶民、地元民とのかかりあいを持っているということになるでしょう。
 備考の欄を見て下さい。信濃の行で、八日堂、蘇民将来とあります。この寺では毎月八日に「金光明最勝経」を転読し、参詣者には蘇民将来のお守りなどを授けるということが行われています。とくに1月8日は大縁日として賑わい、参詣者は10万人に及ぶといわれています。
 前に触れた国分寺造立の詔勅に、「其の僧尼は毎月八日に必ず應さに最勝王経を転読し」云々、とあります。天平13(AD741)年の聖武天皇の勅命どお り、1200年もたった現在に至るまで実施されている寺があることは、まさに驚きであります。
 陸奥の国分寺の場合には、国分寺という名の寺と、薬師堂という寺がありまし て、天平時代の建物の跡は薬師堂の境内にあります。この薬師堂では、正月 1〜7日の間「七日堂」という修正会が行われ、大般若経が転読されます。参詣者には蘇民将来のお守りなどが授けられ、大いに賑わうといわれています。
 四国の四つの寺は、いづれも四国霊場の札所となっています。札所巡りは今では若干観光的になっている面もありますが、今なお大勢の遍路さんたちで賑わっています。
 尼寺は現存する寺が少ないのですが、国分寺造立の詔勅にもあるように、創建当初「法華滅罪之寺」ということで、そのため、今も多くは「法華寺」を名乗っています。
「法花寺」というところもあります。陸奥の場合は「国分尼寺」を、また若狭と 石見は「国分寺」を名乗っています。若狭の場合には僧寺跡は諸説あって分かり ません。また石見の場合には僧寺跡には浄土真宗の金蔵寺という別の寺が建って居ます。
 又(表1)で*印は、私の見たところなかなか良い寺で、古寺巡礼の意味で出掛けられても、京都、奈良の寺に勝るとも劣らない価値を見いだすことができるで しょう。備中は言うまでもなく、吉備路の中心的な寺で、近くに造山古墳などが あります。周防は堂伽藍が立派で寺宝として古い仏像を祀っています。美濃には*印を付けていませんが、薬師如来のいい仏像を見ることができます。

(注1)1982.12.19.「東アジアの古代文化を考える会、研究発表会」 で発表したものをもとに作成した。
(注2)この後、島の国分寺につては、佐渡、1984.4.29. 隠岐、1993.4.29. 壱岐、1994.5.1. 対馬、1994.4.29.に踏査している。また、多祢については実際に造立された可能性は少ないとされている。

H13.1.25./2.13

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