テルモピレー トップへ

北海道への旅

仙台から東京へ

    
 

5:00 楽天イーグルスの仙台を出発!

6:03 郡山に到着!駅前にゴミがとても多い!

猪苗代を通過!

 むかーし、猪苗代の磐梯山つう山に夫婦のばげ物がいだど・・・  そのばげ物は磐梯山と会津高田町の明神ヶ岳に両足でまだがるぐれい、なっげえ 足のでっけえ男のばげ物だったど。それが、がなっと地べだが揺れるぐれえでっけ え声で、にらむ目はぎょろぎょろで、うーんとおっかねがったど。  そうして、まだ、磐梯山にでっちがって長い手を猪苗代湖に伸ばして湖水の水を すくってはばらまき、すくってはばらまき、雨みてえに降らせていだ、おなごのば げ物がいだんだど。村の人だぢが一生懸命作った稲どが畑の作物を長げえ足と手で じんだらにしっちまって食う物もねぐなり、そうがど言って、おっぱらぁにもおっ ぱらぁごど出来ねぐって、ほどほど困ってしまったど。  そごさ、ぼろぼろの着物の坊さまが旅の途中通りががり、村のてえがらその話を 聞いだど。その坊さまは磐梯山に登りでっけえ声で 「おーい、足なが手なが。あめえらはでっけえ体だが、もっとずんねえぐなれねえ だべなぁー」 と言うど、すると・・・ 「アッハッハ! おらぁだちには簡単だ。」と、ずんずんずんねえぐなって天まで 届いちまったど。すると坊さまは、 「すげえ! すげえ! みごどなものだ。今度は、小さくなってこの壷の中に入る なんて簡単だべ」と・・・ 「そんなごどー!」と言うなり、ちんちぇー壷の中に入っちまったど、そうして坊 さまは壷のふたを素早くしめ、土の中さうめちまったど。  その坊さまの名前は弘法大師つう、えれえ坊さまだったど。そして、坊さまどご さともなく旅に出かけ、その後は壷を埋めだ場所からなんと不思議に水が湧き出し て来たんだど。そのどころが「弘法清水」と呼ばれる様になったど。

 

 

  

 

10:11 「よく来らったなし」会津若松に到着!

目的地を喜多方から会津観光に変更。

 

 

  

 

駅にあった巨大なあかべこ。

大同2年(西暦807)名僧徳一大師がこの柳津の地に虚空蔵菩薩をまつったと言われる。その菊光堂を建立する際、どこからともなく数頭の赤牛が現れ、欅の大木の運搬を手伝った。やがて菊光堂が完成すると赤牛は姿を消してしまった。

今では、福島県の民芸品として知られているが、ここ柳津が発祥の地ならしい。

白虎隊の像。

会津藩士の子供は、10才になると「日新館」への入学が義務づけられるが、その以前、6才頃から子供達には藩士としての心得が繰り返し教え込まれた。それが有名な「什の掟」であり、会津精神の基本である。

一 年長者の言うことに背いてはなりませぬ

二 年長者にはお辞儀をしなけれはばなりませぬ

三 虚言を言うことはなりませぬ

四 卑怯な振舞をしてはなりませぬ

五 弱い者をいぢめてはなりませぬ

六 戸外で物を食べてはなりませぬ

七 戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

ならぬことはならぬものです。

 

 

  

 

駅からはバスが出ている。210円

バスがついてから少し歩くと大きな土産物屋がある。

今日も良い天気過ぎてかなり暑い。

11:00 若松城(別名鶴ヶ城)に到着!

 

 

  

 

城の前の武徳殿で剣道かなにかの指導をしていた。

「えっ?会津が首都?」

 

 

  

 

鶴が城歴代城主の家紋。

会津の彼岸獅子舞 (ひがんじしまい)

保科正之が会津に移封された際に伝授されたと伝わる。三体の獅子が豊作と家内安全を祈り市内を練り歩く、会津に春を告げる風物詩。三匹獅子舞は、家内安全、商売繁盛や悪疫の魔よけ、五穀豊穣を祈願する意味を持ち、各村々で民間伝承的なものとして長く保存されてきた。この三匹獅子舞が会津に伝えられたのは、寛永年間で現在の喜多方市関柴町下柴と言われている。会津の春彼岸に街中に繰出し各家々の前で舞われ春の訪れを告げている。

 

 

  

  天守閣からの眺め。
 

 

  

 

なぜか雑学のコーナーがあった。めくると由来がわかる。

雅楽で使う笙(しょう)を体験させてもらった。

吹いたりすると「ぷぃ〜〜〜〜ん」と雅楽の音が鳴る。

他にも沢山の楽器を体験できる。

 

 

  

 

福島県指定重要文化財である茶室麟閣。

千利休の子・少庵が建てたと言われる茶室。この茶室は東日本では珍しい草庵風の茶室。 豊臣秀吉の奥州仕置きによって天正18年(1590)蒲生氏郷が会津に入った。 氏郷は織田信長の娘婿であり、特に茶道に親しみ、のち利休七哲の筆頭にあげられるほどでした。 天正19年(1591)2月28日、千利休が秀吉から死を命じられ、千家が茶の湯の世界から追放された折り、氏郷は利休の茶道が途絶えるのを惜しんでその子、少庵を会津にかくまい、徳川家康とともに千家復興を秀吉に働きかけた。 その結果、文禄3年(1594)と推定される「少庵召出状」が出された。 小庵は京都に帰って千家を再興し、千家茶道は一子、宗旦に引き継がれた。 そののち宗左、宗室、宗守の3人の孫によって表、裏、武者小路の3千家が興され、今日の茶道隆盛の基が築かれました。 かくまわれている間、氏郷のために造ったと伝えられているのが「麟閣」であり、以来、鶴ヶ城(若松城)内で大切に使用されてきた。 しかし、戊辰戦争で会津藩が敗れ、明治初年、鶴ヶ城が取り壊される際、石州流会津怡渓派の森川善兵衛(指月庵宗久)は貴重な茶室の失われるのを惜しみ、明治5年(1872)5月、自宅へ移築し、以来百二十年にわたり、森川家はその保全に努めてきた。 会津若松市では平成2年9月12日、市制90年を記念してこの氏郷少庵ゆかりの茶室を後世へ伝えるため、鶴ヶ城内の元の場所へ移築した。

 

 

  

 

この日はお祭りだったのか良く解らないがお店がたくさんでていた。

ただでりんごジュースも配っていた。

13:00 城から出発!

虚無僧の行列が街を練り歩いていた。

 

 

  

 

路地を少し入った所にある蒲生氏郷の墓へ。

墓は空風火水地の五文字を刻した五輪塔。

墓前には、「限りあれば吹かねど花は散るものを心短き春の山風」の辞世の歌碑がある。

ブルーのシッポがとてもきれいなトカゲがいた。

1:25 蕎麦工房すゞ勘(すずかん)へ

すゞ勘では、そば粉は完全自家製粉で、会津産のみの玄そば100%使用。つなぎなしの十割生粉を湯ごねし、純手打ち。器には会津漆器を使用、蔵づくりの店内。

 

 

  

 

ざる天重セット 1080円 大盛り +200円 鴨南蛮 760円

冷やしぶっかけ 580円   天重がかなり美味しかった!満腹!

うどんは注文してから結構時間がかかる。

食後はバスで駅に向かう。

 

 

  

 

駅につくとSLばんえつ物語が!折角なので乗ろうということに。

普通に乗って座ってたらやっぱり指定席だった。

猛ダッシュで一番後ろの車掌の所へ行って乗っていいかどうか聞くと、

東日本パスでも指定席券を買えば乗ってもいいらしい。

空いてるという一番前の席に座ることが出来た。

15:00 郡山に向けて出発!

 

 

   

 

電車が駅に止まる度に乗客がカメラを持って先頭車両にきて写真を撮っている。

一番前は煙突の煙の影響をもろに受けるのでけむい。

17:31 郡山に到着!結局車掌がまわってこなかったのでタダ乗りに!

郡山で酒の試飲とかまぼこの試食をする。

18:15 黒磯へ!

19:21 宇都宮へ!

20:16 赤羽へ!

ゴール!!終了!

   
サイト内リンク
格闘技名言 ラーメン 漢文世界 coupon photo
プロレス関連 旅行 映画 音楽 net
テルモピレー top page   前十字靱帯    

 

 

 

 

 

テルモピレー トップへ