(24)石部から草津までの旧道     水口→三雲→美し松→石部

 石部から草津まで約12km、旧道は比較的多く残って居る。石部を出ると旧道には二つのルートがある。下道、上道という。下道は野洲川沿いに山裾を通る道で、江戸時代初期にはこのルートを通って居たが、野洲川の氾濫のため上道が開発され、明治に至るまで東海道の本道であった。現在は下道のほうが舗装された広い道になって居るが、砂利トラックの往来が激しく歩行に適さない。少し遠回りになるが上道を行った方がよい。石部駅の少し先を左折、山裾を通って坂を上って行く。静かな山道である。名神高速道路の下をくぐって坂を下る。下った所が下道との合流点、伊勢落である。ここを左折。このあたり田園風景、松林もある。間もなく「新善光寺」という石碑がある。そこを右折して少し行くと立派な寺がある。本尊は、名所図会では「信州善光寺如来と同体なり」といって居るが、阿弥陀如来立像で、98cmあり室町時代作のもとされ、重要文化財に指定されて居る。本堂は膳所城主本多俊次が寛永年間(1661~73)再建したもの。楼門、本堂それと枯山水の庭園もあるが手入れがあまりされていないようだ。また門前には昔、店や休み茶屋だったらしい家が何軒か並んで居るが閉じたまま、今は参詣人も少なく寂れた感じだ。
 旧街道に戻り少し行くと六地蔵。六地蔵というお堂があり、それで地名になった。古い家並みが何軒かあり、そのうちの一軒が和中散本舗跡である。江戸時代、和中散薬を作って売る店が何軒もあった。道中薬として必需品のように旅人に購入されたものだが、今はその店の建物の一部が残って居るだけである。ここはまた同時に茶屋本陣を兼ねて居た所であった。
 小野を過ぎると手原に入る。ここは道中記などで「手孕村」と書いてある所で、名所記に「いにしへこの村の某、他国に行くとて、その妻年いまだわかく、かたちうつくしかりければ、友だちにあづけて、三年まで帰らず。友だち、これをあづかり、我がもとに、をきたりしに。人のぬすみ侍べらんことを恐れて、夜るハ、女の腹の上に、手をおきて、まもりしに。女はらみて、十月といふに、手ひとつうみけり。それより、この村を、手バらみといひけるを、略して、手バらといふ」という面白い言い伝えを馬方に語らせて居る。更に「左のかたに、笠松あり。木のもとに、稲荷明神の社あり」と記して居るが、その社が今も手原稲荷として残って居る。この社の角を右折すれば手原の駅で、駅前に「手原古代建物跡」の碑が立って居る。
 道は南西に曲がって行き上鈎(かみまがり)に入り、その先葉室川橋を渡る。この旧道区間は国道と平行して居て、名神高速道路の入路が近いので道幅が狭いのに車の往来が激しく歩きにくい。川辺から金勝川沿いに右へ曲がりまた左へ折れる。この辺は昔、目川という立場だった所で、古い道、古い町並が続く。すぐ近くを高速道路が走り、工場群が並ぶ所とはとても思えない。そして坊袋で左折し新幹線の下をくぐると新屋敷。ここから草津川の土手の下の道を行く。国道1号線はこの川をトンネルで抜けて居るが、旧道は国道1号線を横切り、草津川の土手を上って橋を渡り向こう岸の土手を下って行く。この道がぶつかったT字路が草津の追分である。右へ行けば中山道、守山、美濃、或は北国道、長浜、越前への道である。旧東海道は左折して行く。
 この角に大きな常夜燈、石の道標が立って居る。また本陣は2軒あったが、この角にあった田中九蔵本陣は廃絶し、その跡は今は公民館のビルになり、その表示があるだけだが、もう一軒の田中七左衛門本陣は古い建物が残っている。草津市は交通の便がよいので、京阪のベットタウンとして、また産業運輸の拠点として年々発展して居る。しかしこの旧道は戦災を受けなかったためもあり、また開発が郊外で行われて、ここまで及んで来て居ないせいもあって、古い建物はないが、町筋としては昔の面影を偲ぶことができる。
 JR草津駅へは追分を右折して旧中山道を行き、トンネルをくぐり商店街を通って行けばすぐである。

☆行程 
石部駅→上道→手原→和中散→草津追分→草津駅 約12km, 4時間

☆地図 
国土地理院 国土地理院 5万分の1 近江八幡、京都東北部

(追記)ここで「草津本陣フェスティバル」について紹介する。平成2年(1990年)2月3日〜4日、本陣の建物を解体修理工事のため、数年間本陣を見られなくなるばかりではなく、昔からの建物そのものも見られなくなるというので、この本陣フェスティバルが開催されたもので、多くの人が訪れた。2月3日には本陣に於いて『歴史講演会』が行われ、元本陣七左衛門家の現当主である田中文子氏の講演があり、本陣の建物を維持する苦労話、学校の先生をしていてその殆どが固定資産税などの税金に消えたことなどの話があり、また大阪市大名誉教授小林博氏により草津宿について下記の話があった。
1、草津宿の役割と規模
2、貫目改所が草津にあった。東海道ではほかに品川、静岡にあった。
3、一里塚、草津駅前通りの交差点(今はない)
4、問屋
5、本陣2軒、田中九蔵本陣、今は小学校になっている。跡はない。
  田中七左衛門本陣 1300坪もある敷地、(東海道で1200坪以上ある所は5しかない。
  脇本陣は藤屋与三郎
6、旅籠
7、高札場、追分にあった。
8、人足小屋 大田酒店の裏にあった。常備、人足100人、馬100匹
9、大名行列(亨保年間)2万石以上、馬20人、足軽130人、全部で450人程度
  少なくとも100人、最小50人


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