(23)水口から「美し松」を経て石部まで    水口→三雲→美し松→石部

 水口の繁華街は元の宿場の街道だが、近江鉄道の踏み切りから先は、古い家並みが続く。その旧道を行くと、前回述べた天満宮の角に出る。ここからは水口の町はずれで、旧道は真っすぐ田んぼの中を行く。かなり歩くと野洲川の土手に突き当たる。そこに大きな常夜燈が土手の草むらのなかに独り取り残されたように立って居る。文政5年(1822)の建立とある。この頃はここから土橋で川を渡った。多分夜間も通行したものと思われる。そのために立てられた常夜燈だったのだが、今は少し下流の国道1号線の横田橋を渡る。
 国道の橋を渡ると、すぐ旧道が左へ分かれる。そばに三雲駅がある。このあたりは元、田川村で昔は立場であった。荒川という小さな川を渡ると、橋の脇に「立志神社」「妙感寺」などの道標が立って居る。立志神社はそこを左折、川添いの道を行くと間もなく立派な社叢が見えて来る。社殿もなかなか良い。「緋雲社」ともいう。「垂仁天皇の頃、大和国より天照大神、伊勢へ遷坐の時この地に四年間鎭座し、瑞雲緋の如くたなびきしより、緋雲宮と称し、のち日雲とし、また後世三雲と訛れるなるべし」と江戸時代の名所図会にあるが、日本書紀によれば倭姫命は大和から出て伊勢へ落ち着くまで、天照大神を奉斎して近江、美濃或は伊賀などの各地を廻られたようである。そのすべてが歴史的事実ではないとしても、元になった伝承があった事は考えられ、この地が早くから開けた樞要な地であったという事は言えそうである。この裏に永照院という寺がある。この寺の下は広い竹薮であるが、「三雲城」があった所だという。
 もとの街道に戻る。この道はひっそりとした家並みが続くが、所々にトンネルがある。川が高架のように道の上を流れて居るからである。天井川といい、近江の東部には多い。水流で土砂が堆積し川底が上がり、田畑や家よりも川の方が段々高くなって行き、しかもその氾濫を防ぐため土手を高く築き直して行ったので、よけいひどくなったものである。昔はその土手を登って川を渡り向こう岸の土手を下って行ったが、明治以後その下をトンネルで抜けるようになった。この天井川の一つ、大砂川の土手に「弘法杉」という大木がある。樹齢750年の古木で弘法大師にちなむいわれがある。
 針という集落に道標があり、「飯道神社入口」、「美し松入口」とあったので右折する。川添いの緑の多い、いい道で500mくらい行った右側に神社があった。「飯道神社」である。式内社で由緒ある神社だが、本宮はこの南方にある飯道山頂にあり、ここは里宮であったと思われる。
 飯道神社からかなりの登り坂を行く。左側の山に有名な種苗会社の研究農場が広々と続くのが見える。坂を登りきった所に、美松台住宅地がある。何軒か建って居るが多くは空き家。そして空き地である。その先にも美し松ハイランドなど、同じような名の錆び付いた看板を幾つか見たが、あたりの山を削って造成した住宅地のようで、草茫々で廃墟のような感じだ。開発造成したが、売れなかったか、買い主が投資のつもりで放って居るのか、どっちかだろう。
 こんなことを考えながら、ひとけのない造成地の道を迷い迷い歩いて、やっと「美し松」の名勝に辿り着く。この松は変わった松で、太い幹か枝か、幾本も根元のすぐ上から分かれてそそり立つ。私はこのような松を他では見たことがない。日本全国ここしか無い松だという。また他の地に移すと枯れてしまうという。「天然記念物」として保護して居るのは当然だろう。不思議なことに何本かがかたまって自生し、その周りには普通の松が生えて居る。明らかにその違いが判る。帰ってから植物図鑑や参考書を調べたが、載って居る本が少ない。名勝として名高いのか、駐車場もあり、あたりは公園のようになって居るが、手入れがよくないのか荒れて居る感じである。大事な珍しい松の保存には本腰を入れてやって欲しいものである。
 行ってみて判ったのだが、「美し松」へ行くのには今来た道はかなり遠回りである。飯道神社に寄らないのなら、街道を500mくらい先を右折した方がずっと近い。つまり帰りはその道を下ったので15分ほどでもとの街道に出ることができた。
ここで余談を一つ。大田南畝に『改元紀行』という紀行文がある。幕府の御家人であった彼が公用で江戸から大坂へ東海道を下った時のもので、各地の見聞を事細かく記していて古道を調べるものにとっては大いに参考になる。ただ彼は輿に乗り従者を連れての旅であったので、途中輿を降りずに従者やはたの人の話ですました場合もあったらしい。「美し松」について彼は次のように記している。「平松といふ所の松うつくしとて、うつくし松といふよしききしかば、右のかたに松原の見やらるるを目にとどめて見しかど、さのみならざりき。すべて聞ところ見るところに異なる也」と。
 現在の「美し松」が昔から伝えられて来た松だとすると、街道から15分近くも上った山の上にあるので、街道のここから見えるはずがない。また一群の松であって松原にはなっていない。従って南畝は多分「美し松」ではない松原を見たのである。それで「さのみならざりき」といい「すべて聞く所と見る所とは異なるなり」とコメントしている。恐らく従者が知らなくて違うものを南畝に告げたに違いない。南畝のような好奇心の強い人がこの「美し松」の本物を見たら何と云ったか、惜しいことをしたものである。
 さて旧街道に戻って先へ進む。やがて柑子袋(こうじぶくろ)で、「上葦穂神社」の標識と鳥居や常夜燈がある。そこを過ぎると道は間もなく落合川を渡る。石部宿はここから300mほど行った所で、今魚屋のあたりにもと木戸があり、そこが宿の東入り口であったという。今は何の跡もない。その左手に「吉姫神社」がある。別名、石部神社とも、鹿塩上神社ともいう。宿に入ると昔ながらの狭い道筋だが、昔の家で残って居るのは殆ど無い。
 石部宿は京から下る場合「京発ち石部泊まり」といわれて居たように、旅籠が多く50軒以上もあり、繁栄した所で、歌舞伎の場面にも出て来る。「お半・長右衛門」(桂川連理柵)の舞台となった旅籠は郵便局の隣にあったというが、今はふつうの商店である。また本陣跡の標識が立って居る所は、昔の家は残って居ないが、ここも「重の井子別れ」(恋女房染分手綱)に出て来る所だという。
 この先真妙寺には芭蕉句碑がある。

 「つつじいけてその蔭に干鱈さく女  はせを」

とあり「野ざらし紀行」には出て居ないが、この旅の時石部の茶屋で昼休みをした際の作だとされて居る。旧東海道はこの先を曲がって200m,再び左へ曲がる枡形であるが、その途中に「吉御子神社」の入り口がある。この本殿は元治元年(1867)に、京都の加茂別雷神社の社殿を移築したもので、藤原時代の木造吉彦命座像とともに重要文化財に指定されて居る。また近くに一里塚、そしてその先に西の木戸があったというが、今は何も残って居ない。
 この先が縄手で、昔松並木のあった道だったというが、松はあまり見られない。右側にすぐJR石部駅がある。

☆行程 
水口→三雲→立志神社→石部      約14km,4時間
飯道神社入り口→飯道神社→美し松→平松(旧道)    約4km,1時間半


☆地図 
国土地理院 5万分の1 水口、近江八幡


目次


[HOME][旧東海道の面影をたどる][旧中山道の旧道をたどる][中世を歩く][中世の道]
[身近な古道][地名と古道][「歴史と道」の探索][文献資料][出版物][リンク]