(22)土山・田村神社から水口までの旧道     田村神社→土山→水口

 ここでは田村神社を出発点とし水口まで歩くことにする。水口まで大部分が旧道で、歩きよいし昔の旅を忍ぶにもいいコースである。田村神社前から旧道がありやがて土山宿に入って行く。土山宿は「間の宿」(あいのしゅく)と言った。坂下から水口まで距離が長かったので、間に新設した宿という意味である。だから「あいの土山雨が降る」と唄うのである。宿に入るとべんがらの連子格子のある家が並び昔の街道そのままのような感じがする。右手に二階は白壁、下半分が奥に三尺引っ込んだ格子造りの立派な家があるが、それが元の土山宿本陣である。その先の大黒屋本陣は今石標が立つのみ。その隣には高札場跡があり、向かい側には「土山陣屋」跡の碑が立って居る。
 ここから500mくらい先で国道1号線と合流するが、そこまでが土山宿であった。その合流点の反対側に道標があり、「右北国たか街道」と刻まれ、細い道が南へ別れて行く。北国街道や多賀大社への近道である。多賀大社は「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」と唄われるように、天照大神の両親とされる伊邪那岐、伊邪那美の二神を祀る。伊勢神宮は皇室の祖先神を祀り、皇室が奉斎して来たが、中世以後皇威の衰えとともに、その維持はむしろ民間の手によってなされて来た。とくに近世江戸時代には、伊勢参宮が庶民に広く行われる。その往きか帰りには必ず多賀大社へ参るものとされて居た。
 旧東海道はすぐ右へ、そして左へ折れて再び国道と合するが、この間も古い家並みが残って居る。国道を少し歩いて野洲川の橋を渡るとすぐ旧道は左へ分かれる。やがて滝樹神社入口の碑が立っており、500mほど離れた所に社叢が見える。このあたりを「頓宮」という。昔斎王群行の際の頓宮があった所で、その名が残ったのだという。その遺跡とされて居る所は、街道から北へ約200m,「垂水斎王頓宮」跡の碑が立ち、方形の土手や井戸の跡などが残って居る。「斎王」というのは、伊勢神宮に奉仕する未婚の皇女で、記録によれば垂仁朝の倭姫が初代である。天皇の代わるごとに皇女の中から占いによって選ばれ伊勢へ向かった。これを群行という。その群行の時に一時宿舎として滞在した所を頓宮といった。それは垂水(つまりこの地)、甲賀、国府に置かれたという。この群行は鎌倉初期まで続いたが、以後皇威の衰微とともに廃れた。
 この先、市場集落を抜けた所に昔の松並木が少し残って居る。徳原で国道を横断、今宿の先で国道バイパスが右へ分かれる。その交差点を越えた登り坂の脇の薮の中に「経塚」がある。鎌倉初期のものというが、誰が、何のために造ったのかは定かではない。この先に「岩神社」という小社がある。そのあたりには以前、弁慶の背比べ岩という大岩があったというが、今は判らなくなって居る。(図会には、弁慶背競石として"水口の東一里、小里村の左の方、山手にあり"と記して居る。)
 旧街道は旧国道と交差し右へカーブして行くが、このあたりが元町で水口宿になる。古い家並みの道が幾筋もあって、その中のどれが元の宿場の旧街道なのか迷うが、二番目の角を曲がって行く真ん中の道が旧道で、宿場のメインストリートであった。古い家並みの中に本陣跡、脇本陣跡がある。このへんから京町にかけて旅籠が軒を連ねて居たというが、今もその面影はいくらか残って居る。しばらく歩くと本町になる。少し広い通りと交差するが、右へ行けば日野を経て彦根へ、左に行けば貴生川を経て信楽または甲賀に至る。またバス通りで各地へのバスが頻繁に通る。この道を挟んで旧道は水口の繁華街になって居る。間もなく近江鉄道の踏み切りを渡る。すぐ左に石橋駅がある。この電車は米原まで行って居るが、途中乗り換えがある上、時間もかかり、運行回数も少なく不便である。それより先に通った交差点まで戻り草津行きのバスに乗った方がよい。JR草津駅まで約50分、頻繁に出て居る。
 水口はあまり開発という名の破壊を受けて居ないので、古いものがかなり残っており、見るべきものが多い。そのすべてを見ようと欲張ると一日がかりなので、ここでは、大岡寺、水口神社、水口城址そして天満宮の四つに絞ることにする。
 大岡寺は今来た旧道を少し戻る。参道入り口に「鴨鳥明発心所」の碑が立つ。参道の石段を上がると寺の前を旧国道が走って居る。また本堂の裏山には国道バイパスが通り、静かな良い寺とは言い難いが、荘厳な伽藍である。ここに芭蕉の句碑がある。

 「命ふたつの中に生きたる桜かな」とある。

 水口神社は、この寺から裏道を抜けて行くと電話局の所に出る。その先に参道が見え、そして鳥居がある。そんなに大きな神社ではないが、延喜式の古社で、ここの山車(だし)は有名である。
 そこから田んぼの中の細い道を行き、電車の踏み切りを越えていくと運動場がある。そのあたりが水口城のあった所で、寛永12年(1635)三代将軍家光が上洛の際、宿舎に当てるため造営したのが始めだという。本丸は将軍専用の館、その他は警護、管理の建物として造られた。その後、加藤氏が城主となり水口藩として明治に至る。今それらを偲ぶものはなく、わずかに堀、石垣の一部が残って居るのみ。
 この前の道を行くと旧街道に出る。その先の突き当たりに天満宮がある。綾野天満宮という。もとこの地は菅原道真の荘園があった所で、そのゆかりで建てられたものだという。

☆行程 
田村神社前→土山→水口     約12km.3時間
途中、斎王頓宮跡、滝樹神社に寄り道して   約2km、1時間
水口市内見物     約4km,1時間半

☆地図 
国土地理院 5万分の1    亀山、水口

(注1)この文は昭和60年にここを歩いたときの知見をもとにしている。平成12年に再びこの区間を歩いた。街道の状況はかなり変わっているが、一部を除き文の変更はしなかった。特に交通事情はさらに悪化している。鈴鹿越えのJRバスはない。また土山へのバスもなくなっている。この区間は土山で中断せずに通しで歩くしかないようである。

(注2)水口に泊まることが可能ならこのコースを歩くには甚だ都合がよい。水口は通過しただけだが、水口宿の中程に元旅籠らしい枡又旅館というのがあり、営業して居るのを見た。外から見ただけだが、箱箪笥階段のある古い様式の建物である。水口には他にも何軒か旅館はあるようだ。しかしこういう所では、営業して居る時として居ない時とがあり、しかも一人旅だと断られることが多いので事前の準備が必要である。
 

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