(17)岡崎から八橋を経て池鯉鮒、そして 尾張へ……業平の故事を忍ぶ
  岡崎→八橋→池鯉鮒→今川→境橋(→桶狭間)

 岡崎からは、旧道部分が矢作橋から知立のあたりまでと、今川のへんに断続的だが、比較的多く残って居る。名鉄東岡崎駅から矢作橋まで歩いてもよいが、バスの便もある。バスなら板屋町で降りて国道を歩く。名鉄岡崎公園駅で降りると、岡崎の町はずれの古い町並を歩ける。岡多線の高架をくぐった先の左側は八帖町、岡崎独特の味噌、八丁味噌の製造元が並んで居る。
 矢作川は意外に大きい川で、従って橋も大きいし長い。広重の絵、岡崎では長い橋とその上を長い大名行列が通る構図になって居る。当時208間(378m)もあったという。日吉丸が薦をかぶって云々の話に出て来る絵や芝居の場面のようなチャチな橋ではない。但し旧道はもっと南の松葉町(現、中岡崎町)を通り、先に述べた八帖町を抜けて、土手の手前で右折、しばらくして左折して橋にかかった。今の橋の100mくらい下流である。 さて橋を渡りすぐ右に折れ、150mほど行くと矢作神社がある。古社で緑の境内広く、日本武尊にちなむ伝説がある。橋まで戻る手前を右折、ここから旧道が続く。すぐにあるのが誓願寺である。源義経にちなむ浄瑠璃姫、矢作長者の墓と伝えられるものがある。この浄瑠璃姫と牛若丸の情話を脚色したものから浄瑠璃節が生まれたという。浄瑠璃節は後、義太夫節の別名になり、これから分かれて、清元、常盤津節、新内節などになる。
 旧道はやがて国道に合するが宇頭の先で再び分かれる。このあたりは安城市である。ここで右へ500m程入ると式内社「和志取神社」がある。天日鷲命を祀る古社である。この先、明治用水の一つ「東高根用水」があり、その記念碑が立って居る。近くに熊野神社があり、そばに「予科練」の記念碑がある。ここは第一岡崎海軍航空隊跡で予科練習性揺籃の地である。神社の横には元の鎌倉街道だという細い道がある。その先に明治用水を記念して建てられた立派な神社、明治川神社がある。このへんの新田開発のためにこの用水がいかに有効であったかがわかる。その少し手前に永安寺がある。ここの黒松は見事なものである。一見に値する。
 この先猿渡川橋を渡る。ここから知立市になる。御鍬神社があり、その先に右へ行く道があり、八橋への道標が立って居る。このあたりには在原業平ゆかりの場所が多い。その理由は「伊勢物語」にこの地の話が出て来るからである。第八話に東下りの話があり、都から道に迷いつつ、この地「八はし」にたどり着いた。川が幾筋も流れ、「水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つにわたせるによりてなむ八橋といひける。」その水辺に燕子花(かきつばた)が美しく咲いて居たので、連れの者と「かきつばた」という五文字を句の上において和歌を詠もうということになり、その男(業平と想定されて居る)の詠んだのが次の歌である。

 「唐衣きつつなれにしつましあれば はるばるきぬる旅をしぞ思う」

 無量寿寺はさきの曲り角から歩くこと10分で着く。途中前述の明治用水がとうとうと流れて居る水路を渡る。伊勢物語にあるように幾筋もの川が流れて居た水の豊富なこの地に、何故用水の開窄が必要で、その功績がこんなに称えられるのか不思議な気がする。或はこの下流の人々の為になったのか。
 この寺の本尊は正観音像で業平の作と伝えられる。ここには業平が東下りの時、都から慕って来て会えずになくなったという杜若姫の墓、また「かきつばた苑」がある。私の行ったのは5月26日だったので盛りは過ぎて居たが、それでも見物の人は多く、まだ鑑賞にたえた。見頃は5月15日前後という。本堂前に芭蕉の連句碑があり、

 「かきつばた 我に発句のおもひあり   芭蕉」

 「麦穂なみ よる潤いの里        知足」

と刻されて居る。こういう連句の碑は珍しいそうである。
 近くに業平の分骨を葬ったという在原寺、名鉄の線路の脇に在原塚がある。
 このあたりは古来有名で、また東海道の通り道になって居たらしく、平安時代の紀行文から江戸時代の道中記に至るまでたいてい出て来る。「伊勢物語」の作者も成立時期もはっきりしないが、在原業平の歌が中心で、その死後(貞観2年、870年)古今集の成立(延喜5年、905年)頃作られ、その後加筆されたものだというのが通説になって居る。それからそんなに遠くない康平3年(1060)の頃の作とされる「更級日記」には「八橋は名のみにして橋のかたもなく、なにの見所もなし」と書かれて居る。また鎌倉中期(13世紀半ば)の作とされる「十六夜日記」には「ささがにの蜘蛛手あやふき八橋を夕ぐれかけてわたりぬるかな」とあり、暗くなって危ない橋を渡った様を歌によんで居る。
 ずっと時代は下るが、寛政9年刊行の「東海道名所図絵」には絵とともにかなり詳しく紹介して居る。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」では弥次、喜多はここを通って居ない。 ここから旧東海道に戻る。国道1号線とクロスした先からが知立宿である。江戸時代以前には池鯉鮒と記して居る例のほうが多い。また馬市がたち、三河木綿の市は常に立っていた。広重の池鯉鮒の絵は馬市が描かれて居る。ここには知立城址、了運寺、知立神社がある。知立神社はもと池鯉鮒大明神といった。多宝塔があり、嘉祥3年(850)の建立と伝えられ、重要文化財に指定されて居る。ここの境内に池があり花菖蒲がちょうど見頃であった。名鉄知立駅へは今来た道を少し戻ってから右折する。
 旧道はこの先、逢妻橋を渡るとすぐ国道に合する。刈屋市の境を越えた所が一里山で、昔一里塚があった名残と思われるが今は何も残って居ない。この国道を1kmほど歩くと左へ旧道が別れる。今岡という。立場があった所で、その先が今川(いもがわ)になる。東海道名所記に「いも川、うどん・そば切りあり、道中第一の塩梅よき所也]とあり、ここのうどんはいわゆる「ひもかわうどん」名古屋でいう「きしめん」のことである。やがて国道と交差し境橋を渡る。三河と尾張の国境で、今はここから豊明市になる。橋のすぐ先で国道に合し、阿野一里塚の所で左へ旧道が分かれて行く。やや上り坂で、このあたり前後町。旧道は続き名鉄のガードの手前で国道に吸収される。ここに名鉄競馬場前駅がある。このガードをくぐった所に公園があり、桶狭間の古戦場とされ、今川義元の塚がある。また近くに高徳院があり、今川義元とその部将松井宗信の像を祀って居る。この寺の境内に芭蕉の句碑がある。

 「あかあかと 田はつれなくも 秋の風」

なお、桶狭間古戦場はここではないという説があり、ここから2kmほど南の名古屋市有松に桶狭間という地名の所がそれだという。

☆行程 
A.名鉄岡崎公園駅→矢萩橋→八橋→知立神社→名鉄知立駅 約16km,5時間
B.知立神社→今川→境橋→名鉄競馬場前駅 約 8km,2時間半

☆地図 
昭文社 エリアマップ 岡崎市、安城市、刈谷・知立市、大府・豊明市

☆参考 
この区間は、岡崎から知立神社までを主とし、その先行くなら境橋まで歩き名鉄 豊明駅から電車に乗るのが、ちょうど歩行にはいい距離である。桶狭間は後述す る名古屋市内コースの出発点とすることも考えられる。




 

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