(11)大井川越えと小夜の中山  藤枝→島田→大井川→金谷/金谷→菊川→小夜中山→日坂→掛川

 藤枝から島田間もかなりの区間、旧道が残って居る。藤枝駅を出発点にすれば、駅前の道を北に1kmほど行って左へ斜めに入る。ここからが旧道である。すぐ瀬戸新屋だがこの先に松並木が残って居る。そして「一里山」。昔三軒屋一里塚があった所だが、今は何も残って居ない。やがて国道に合し御仮屋で再び旧道になる。間もなく島田の市街に入って行く。島田はかなりの町で、区画整理、道路拡張が行われたので、古い建物で残って居るものは少ないが、宿場としては大井川の渡しがあったため当時かなりの規模であった。幕府は軍事上、東海道の主要河川に橋を架けなっかたが、この大井川では舟渡しもなくすべて人足による渡しを原則とした。しかも大井川は流水量が一定でなく流路もしばしば変わった。流水量が多くなると、川止めといって渡しを禁止したので旅人は何日も、大井川の両岸の宿場に逗留をよぎなくされた。ひどい時には、島田や金谷の旅籠が満員で、その手前、藤枝、岡部、或は日坂、掛川で足止めをくった事もあったという。俗謡に「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」と歌われて居るのはこの様子をよく物語って居る。ちなみに当時の資料によると、総家数1461軒、うち本陣3、旅籠48、宿内人別、男3400人、女3327人、計6727人で、規模は三島より大きい。ついでに言うと駿府は城下町ということもあり、人別では男女計14、000人を超えて居た。この人別には商工の町民が対象であって、武士などは含まれて居ないから、当時の静岡は2万人近い人口があったと考えられる。東海随一の大都市であったといえる。
 島田の宿はずれに大井神社がある。島田の産土社でわりと大きな神社である。今も3年に1度、10月13〜15日に行われる帯祭りは有名である。この先が河原町で、昔の番宿のいくつかが民家で残って居る。番宿は川越え人足の集まり所であった。その手配、取り締まり、それと旅人の川越えの段取りをしたのが「川会所」である。現在、旧道の右手に復元されて居る。旧道は大井川の土手で途切れる。この川を渡るには、約1kmも上流の国道1号線の大井川橋まで行かなければならない。
 橋を渡り土手を同じくらい下流へ歩いて、土手を下りる。金谷川の渡し場はこのあたりの河原だと思われるが何も残って居ない。土手を下り細い道を行くと小さな橋があり、東橋という。金谷宿はこの先大代橋を渡った所からで、大井川の対岸の宿として島田に劣らずおおいに栄えた所だが、今は寂れていて見るべきものはない。間もなく金谷駅である。JR金谷駅は今は珍しいSLが走る大井川鉄道の起点で、SLフアンが多く集まる。駅のすぐ裏が長光寺。

 「道のへの木槿は 馬に喰はれけり」

の芭蕉の句碑がある。ここから上って行くのが旧道だが、この寺の手前にもと一里塚があり、金谷宿であった。その細い道を上って行くと、「中山道」(なかやまみち)という説明板のある所がある。それによると、日本で最初の有料道路だそうで、明治以前この道があまりひどく通るのに難渋したのを、改良し、この区間通行料をとったという。この急坂を上り、広い道路を横切り更に上って行くと、庚申堂があり、そばに鷄頂塚がある。いかにも追いはぎがでてきそうな雰囲気で、芝居の場面にそのままありそうである。ちなみに、芝居の「白浪五人男」に出て来る日本駄右衛門の墓が金谷宿手前の宅円庵という寺の隅にある。
 この坂を上って行くと、途中に石畳道が一部残って居る。坂を上りきると、広い道に出、同時に眺望が開ける。ここが牧の原で、角に明治天皇駐輦碑が立って居る。近くに通信の中継所ある。その横に諏訪原城址があり、堀などかなりの遺跡が残って居る。ここは武田勢が拠点として守りを固め、これを徳川勢が攻め、激烈な戦いをした所である。戦国末期、甲斐の武田がここまで進出して居たということであり、私はその後、中山道を歩いて、上州「安中宿」を通りそのあたりに武田の勢力拠点を見、甲斐武田の版図が意外に広く、その勢威の大きかったことをあらためて認識した。織田信長が恐れて居た理由がよく分かる。 この先で左へ下りて行く細い道がある。これが旧道で間もなく急坂になる。菊坂といううが、これを下りきった所が菊川の集落で、昔「立場」があった所である。「立場」というのは、「宿場」と「宿場」との中間に置かれた休み茶屋などがある旅人の休息場所である。大名などが休息する所は指定されて居て「茶屋本陣」という。ここにもその跡がある。なおこの茶屋本陣跡には、中御門宗行の詩と日野俊基の歌を彫った碑が立って居る。宗行は承久の乱で鎌倉幕府に捕えられ、この地で斬られた。その時の辞世の詩だという。俊基はその110年後、元弘の乱で同じく鎌倉幕府に捕えられ、鎌倉に送られて斬られたが、その途中この地を通った時に詠嘆して詠んだ歌である。
 集落を過ぎてしばらく行くと小川にかかる橋がある。ここを左折して上って行く。細い道で表示もないので注意しないと見落とす。かなりの急坂だが、上りきると茶畑の中の尾根道で、眺望のよい車の脅威もない快適なハイキングコースである。芭蕉も野ざらし紀行で

 「馬に寝て 残夢月遠し茶のけぶり」

という句を小夜の中山でよんで居る。「茶のけぶり」というからその頃からこのあたりには茶畑があったのだろうか。この道を少し行くと右側に寺がある。久延寺で境内に「夜泣き石」「五葉松」と先に紹介した芭蕉の句碑などがある。このあたりは古来、伝説、歌、紀行文などで名高い小夜の中山(さやのなかやま)で、近くにはもう一つの夜泣き石があり、夜泣き松、妊婦石など伝説にちなむものが多数ある。久延寺の前には鎌倉時代の接待茶屋の跡がある。西行も文治2年(1186)この地を通り、

 「年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山」

という有名な歌を詠んで居る
沓掛のあたりから、道は下り坂になる。坂を下りきった所が日坂宿である。ここは今なお格子戸の家など古い面影を残して居る。四つ辻の元小学校のあった所は、旧片岡本陣跡で、安政3年建立の常夜灯がある。この静かな落ち着いた集落のはずれに、「事任八幡宮」がある。昔の案内記に「古宮」或は「己等乃麻良知神社」で由緒も古く、境内も幽邃で広い。この神社は枕草子に「社は、ことのままの明神いとたのもし」とある社で、前掲の十六夜日記の阿仏尼もここを通り「ことのままとかやいふ社のほど、もみじいとおもしろし」と記している。ここからは、一部旧道のある区間もあるが、国道1号線を歩かねばならないので憂鬱である。厭な道を行くこと約1時間、成滝という所で国道は右へ離れて行く。やがて馬喰橋を渡る。この川が塩井川で、東海道中膝栗毛に、橋が落ちて居たので、弥次、喜多が二人の座頭をだまし背中におぶさって渡ろうとし、途中で気付かれ、川中に振り落とされる場面があるが、ここである。
 このあたりから掛川宿だが、昔の面影はあまり残って居ない。ただ掛川公園はもとの掛川城の跡で、石垣、櫓などの跡が残って居る。公園へ行く道の十字路を反対に行けばJR掛川駅に着く。


☆行程 
A.藤枝駅→島田→川会所跡→金谷駅     約16km,5時間
B.金谷駅→菊川→小夜中山→日坂→掛川駅 約14km,4時間

☆地図 
国土地理院 5万分の1 静岡、家山

(注)掛川城は現在復元されている。


 

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