(3)横浜市内に残る旧東海道   神奈川→程土ヶ谷→権太坂→品濃坂下→(東戸塚駅)

 横浜市内には旧道がわりと残っている。川崎市の境から、鶴見市場を経て生麦まで。この道は川崎市の六郷大橋南詰めから市内の繁華街の道となり、八丁畷を経て続いている旧道である。狭いのに車の往来が多いので、歩くことはあまりすすめられないが、この区間について少し説明すると、京浜急行鶴見市場駅下車、すぐ旧道に出る。そこに小さな社があり「武州橘樹郡市場村一里塚」の碑が立っている。元の一里塚の跡である。この先で鶴見川を渡り、少し行くと鶴見神社がある。昔の富士塚、古墳でもあったという。鶴見駅前を抜け国道を横切って行くと、生麦で、子安とともに漁村だった所。つい最近まで釣り船がもやい、魚介の匂いがしていた。再び国道に合する手前に「生麦事件碑」がある。幕末、島津久光の行列を横切ったイギリス人を斬って国際問題になったところである。
 この先、青木橋の手前宮前町に旧神奈川宿の一部として、旧道が500mほど残っている。中程にあるのが洲崎神社。その由緒は、源頼朝が相模の石橋山で旗挙げして大敗し、房州に逃れて再挙をはかり、平家討伐に成功、鎌倉に政権樹立後、建久2年(1191)この地に房州の安房神社の分霊を祀ったのがはじめとされている。
 さて今回の旧道歩きは、この青木橋を出発点とする。ここからは旧道が連続的に残っており、車の往来も少なく、歩行にもよいからである。
 橋を渡ってすぐ、丘の上にあるのが「本覚寺」。国道拡張のためのり面が急になり、境内も以前より狭くなった感じだ。この寺は幕末、安政6年(1859)アメリカ領事館となった所で、古い山門が残っており、門前にアメリカ領事館跡の碑が立っている。
 もとの道に戻り、少し行くと右手へ曲がる道がある。東横線のガードをくぐりすぐ登り坂になるが、これが旧東海道である。昔は「神奈川の台」といわれ、現在神奈川台町となっている。広重の神奈川宿の絵はこの坂道を描く。左手は海で船とその先に本牧の山手が見える。現在はビル街の裏が見えるだけだが、その環境を除けば道の姿は昔のままである。ただ舗装され自動車が通るのが違う。この旧道に入ってすぐにあるのが「三宝寺」。外観は駐車場ビルのようで寺のような感じではないが、このあたりに昔一里塚があった。隣、奥崖下に大綱大神、金比羅宮があり、坂道の左手に丁字屋、田中屋という料亭がある。江戸時代この坂道は「此處は片側に茶屋軒を並べ、いづれも座敷二階造り、欄干つきの廊下、棧(かけはし)など渡して浪打ちぎはの景色いたってよし」(十返舎一九/東海道中膝栗毛)といわれた所で、前述の広重の絵にも「さくらや」や「たなかや」の看板を掲げて居る茶屋など何軒かの茶屋が描かれて居る。
 坂を登りきると、だらだらとした下り坂になり、浅間町の交差点の手前で広い道に出る。浅間町の交差点を越え、すぐ先の道を右折して旧道に出る。第三京浜三つ沢入り口への道が拡幅改良されたため分断されたので、ややっこしい迂回をしなければならない。裏道で狭いが歩行にはよい。右手丘の際にあるのが浅間神社、昔、富士の「人穴」に通じる穴があったという。この先松原商店街になり、国道16号線を横切る。その少し手前に大山街道の分かれがある。その道はさらに分かれて後述する江戸時代以前の古道になっている。また国道16号線の左手広い交差点が洪福寺交差点でその右手に同寺がある。 国道の先、天王町の商店街を行くと、右手にあるのが「橘樹神社」。旧武蔵国橘樹郡の尊崇をあつめた古社で、明治天皇東幸の際の記念碑が立っている。間もなく帷子川にかかる帷子橋を渡る。この川は以前は相模鉄道の線路より西側にあったが、戦後、河川改修工事で今の位置になったものである。なお、この橋の300mほど上流にかかっている橋が「古町橋」で、ここを細い道が通っているが、先に述べた江戸時代より前の東海道の古道である。この道は崖の下を通り遍照寺の手前で旧道に合して居る。
 広重の「程ケ谷宿」の絵を私は2種見て居るが、いづれもこの帷子橋のあたりを描いて居る。川と橋とその先の藁屋根の家々、今、それを忍ぶものは何物もない。程ケ谷宿は岩間、帷子、程ケ谷と三つの地区からなるが、現在それぞれ町名として残って居る。天王町駅からずっと広い真っすぐな道になる。この道は改修されたので旧道である保証はない。むしろ、天王町駅から斜めに行き崖に突き当たって前述の古道に合する道が旧道であると思われる。その先、遍照寺の前を通り、保土ケ谷小学校の先、鈎の手に曲がると商店街である。この手前で広い道は保土ケ谷駅の方へ曲がり、旧道は狭い一方通行の道になる。なお、遍照寺には、本堂うしろに、江戸三大狂歌師の一人「朱楽菅江」の建てた百万遍供養塔がある。
 旧道は東海道線の踏み切りを渡るが、すぐ国道1号線に突き当たる。旧東海道はその角を右折して行くのだが、その角の正面にあるのが元本陣「軽部家」で、石塀にその表示と説明板がうめこんである。戦後間もない頃には藁屋根の家など古い家が何軒か見られたが、みな建て変えられて古いものは何もない。国道をしばらく歩く。左手、小川の先に森がある。ここにある小社が外川神社で、このあたりまで昔は程ケ谷宿であった。その先横断歩道橋があるあたりに一里塚があったというが、今は何の痕跡もない。
 やがて旧道は右へ分かれる。細い道なのに自動車の往来が激しく、歩く身には煩わしいがそんなに長い距離ではない。中程、右手にあるのが樹源寺、山崎紫紅の墓がある。間もなくT字路に突き当たる。右折して鉄道のガードをくぐって行く道が二股川への道、信号で向う側へわたり、左に行き、すぐ右折する。この道の入り口に「権太坂」という表示がある。急ではないが長い坂道である。以前はまわりは畑、そして林、尾根道で展望もきいたいい坂道だったが、すっかり住宅地になり眺望は望めない。高圧線の下をくぐってしばらく行くと、太洋不動産の開発した住宅地の真ん中に、中学校と小学校が並ぶ所に出る。そこを道なりに行くと元境木の茶屋があった所で、今もその茶屋であった家と、数軒の旧家が残って居る。
 「境木」というのは、武蔵と相模の国境に大木があり、それに由来している。現在境木地蔵堂があり、その境内にある大木がそれだが、残念ながら幹の中程から折れてしまっている。ここは横浜市の保土ケ谷区と戸塚区の境界になっている。
 このお堂の前を左折、下り坂を行く。焼餅坂ともいう。再び上り坂になる。上りきったところに、こんもりしたところが両側にあり、これが「品濃一里塚」である。東京、神奈川を含めてこれだけの一里塚が残っているのは珍しい。周囲が住宅地として開発されて居るだけに、是非これからも残して行ってほしいものだ。できるならあまり手を加えずに。 ここから尾根道を行き、「品濃坂」を下ることになるのだが、大規模な住宅地開発と広い道路建設のため、すっかり分断されて一部が残っているだけである。石段を下り、広い道の横断歩道橋を渡り、住宅地の間を抜け、柏尾川の脇の道を行くと国道1号線に出る。品濃口でここまでが旧道である。数年前まで切通し坂の砂利道がずっと続いて居た区間である。この先一部旧道が残って居るところがあるが、戸塚駅までかなりの道のりを車の多い国道1号線を歩かなければならない。それよりも少し戻って東戸塚駅へ出た方がよい。

☆行程 
京浜急行神奈川駅(青木橋)→浅間町→相模鉄道天王町駅→ 程ケ谷宿→境木→品濃坂下→東戸塚駅 約9km, 歩行2時間半

☆地図 
人文社 広域都市地図 横浜東部、横浜西部
昭文社 横浜区分地図 鶴見区、神奈川区、西区、保土ケ谷区、戸塚区

 

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