(2)東京都内に残る旧東海道   高輪大木戸→品川宿→鈴ヶ森

 東京都内に唯一残る東海道の旧道は、北品川から鈴ヶ森の区間で、元の品川宿と大井村そして刑場があった鈴ヶ森が含まれる。戦災であらかたの建物は焼失し、古いもので残っているものは少ないが、街道の町並としての面影は忍べるし、付近には寺社、史跡など見るべきものは多い。またこの旧道は商店街、生活道路となっているので、車の往来はあるが歩行にはさほど支障にならない。
 旧東海道は「日本橋」を起点とする。今の日本橋は高速道路の下になって居て目立たないが、ここが国道の起点であり、東京道路元標が建って居る。「お江戸日本橋七つ立ち……」こちゃえ節にあるように、明け六つが日の出の時刻だから季節にもよるが、日本橋を早立ちすれば品川か川崎で昼飯時になる。品川宿は、従って江戸を発って行く時には宿泊場所にはならない。また京から下って来る時も帰りを急ぐので、これまた素通りすることになる。従って「宿」として宿泊客が少ないので繁栄しなかったのではないかと思われるのだが、さにあらず、江戸中期の記録によれば、宿内総家数1561軒、うち本陣1、脇本陣2、旅篭93、もあり殷賑を極めたという。その理由は、江戸からそう遠くない場所なので、盛り場として栄えたことである。よく知られているいるように、各街道の宿場の旅籠には「飯盛り女」がおかれた。表面は女中、今でいうホステスだが、売春を目的としたもので、幕府も黙認していたものである。江戸の歓楽街としては吉原が公許の場所で、他に「岡場所」というのが辰巳(深川)、両国、池の端(上野)などもぐりの盛り場があり、時々手入れをうけていた。品川宿はそれらと同様のしかも黙認、半ば公認の盛り場として栄えていたわけである。これは明治以降も続き昭和の初期まで、そういう場所として残っていたものである。
 日本橋から品川まで、二里、約8km、この区間は一部裏道として旧道が残っている所もあるが、広い通りで車が多く、歩いても面白くない。そこで省略することにするが、ポイントだけをいうと、現芝大門1丁目の大神宮(芝神明社)と芝浜である。芝神明社は昔の神明町、浜松町のあたりで芝の中心であった。「芝で生まれて神田で育った」というのがいなせな江戸っ子の自慢のせりふだそうだが、今の大神宮はコンクリートの駐車場ビルの上に鎭坐する社殿で、あたりにも昔の面影を忍ぶものはない。
 落語の「芝浜」で財布を拾う場面の芝浜は、JR浜松町から田町の間にある大ガードから田町寄り、いまNECビルの東側である。つい最近まで船着き場があり、舟宿もあった。戦前は海苔を干している風景が見られたものである。今は鉄道線路とビルに囲まれた狭い公園になっている。つまり江戸時代ここまで海だったわけだ。
 この先この大通りを南へ約1km、「高縄の大木戸」があった。今は石垣が残るだけだが、ここまでが江戸で、夜明けに門を開け、日暮れに閉じた。しかし木戸は江戸時代初期を過ぎるとなくなって居たというのが事実のようである。近くの山手に赤穂浪士で有名な泉岳寺がある。この2カ所へは都営地下鉄泉岳寺駅下車が便利である。ここからが江戸の外で高縄手とよばれた崖下の海沿いの道であった。品川駅までの間の右手奥に「東禅寺」がある。幕末、イギリス領事館となっていたところで、尊王攘夷の焼け打ちにされた。しかし明治の始めまでそのまま領事館として使われ、その建物の一部が残っている。
 品川宿は品川駅から広い道を南へ行き、陸橋、八つ山橋を渡る。京浜急行の踏み切りを越えると、やや下り坂の道がある。これが旧東海道で、品川宿である。近くに京浜急行の北品川駅があるので、品川宿を出発点にするなら、この駅下車が便利だが、ここでは前述の泉岳寺駅下車、高輪大木戸を出発点にして歩きたい。
 旧道は繁華な商店街になっているが、そこを500m程行くと小公園がある。ここが元の本陣跡だが昔を忍ぶものは何も残っていない。この先目黒川を渡るが、その手前にあるのが「荏原神社」である。この川を境に、北は北品川、南は南品川になっているが、荏原神社は南品川の産土社、何故南品川の産土社が川の北側にあるかというと、昭和になって目黒川の河川改修が行われたためである。大正以前には目黒川の南にあった。北品川の産土社は「品川神社」で、ここへは少し戻って国道を渡った丘の上にある。ここの石鳥居は堀田正盛が慶安元年(1648)に寄進したもので、都内では最も古い鳥居の一つである。また神社の裏手には明治時代自由民権運動に活躍した板垣退助の墓もある。
 この近くに「東海寺」がある。以前は広い寺域であったが、明治以後次第に狭められ、その墓地は東海道線と山手線との分岐点、両者に囲まれた緑の地域に隔てられ局限されてしまった。従ってこの墓地へは東海寺からは直接には行けない。山手通り(環状6号)に出て東海道線のガードをくぐり、細い坂道を登って行く。ここには東海寺の開基、沢庵和尚の墓、著名な国学者、加茂真淵の墓などがある。
 さてもとの旧道に戻り、目黒川を少し下ると「寄木神社」がある。小さな社だが、伝説では、日本武尊と弟橘媛の乗って居た船がこの沖で難破、船材と媛の持物の一部がここに流れ着いたので、弟橘媛をまつって建てたのが創めという。この本殿の扉の裏には幕末の名工、伊豆の長八による「天孫降臨」の漆喰こて絵が描かれているというが、通常は見られない。
 再び旧道に戻り、目黒川にかかる品川橋を渡る。ここからが先に述べた南品川、昔の南本宿だが、右へ少し入ったところに妙蓮寺がある。ここは芝居で出て来る慶安事件の丸橋忠弥と、吉原の花魁(おいらん)高尾大夫の妹、薄雲大夫の墓があるので知られて居る。このあたり、海蔵寺、妙国寺など古い寺が多い。
 この先の交差点が青物横丁で近郊の農家が青物(野菜類)を運んで来て、市場が開かれて居たのでその名がある。 この交差点は池上街道の分岐点で、池上街道はここから今の大井町駅付近を経て、八景坂から新井宿そして池上に至る。池上本門寺への参詣道だが、溯ると室町時代には、その先矢口へ出て、矢口の渡しを渡り、鶴見川を末吉のあたりで越え戸塚、更に鎌倉へ出るルートで、鎌倉街道あるいは東海道の本ルートであったという説がある。
 品川宿はここで終わるが町並は続く。少し行くと「品川寺」がある。ここには門前に大きな地蔵が鎭坐して居る。江戸六地蔵の一つで、江戸の出口、中山道では巣鴨、日光街道では千住など六ケ所におかれた。この先100mの横町に「海晏寺」への道標が立つが、この寺は国道を渡った西側にある。昔は街道のあたりまで一帯が境内であったといわれている。この寺の奥には、松平春嶽、岩倉具視、由利公正など、明治の元勲の墓がある。また北条時頼、時宗などの供養塔も残っている。 東大井1丁目に入ると、このあたりは昔の大井村、御林町、俗に鮫頭(サメヅ)と呼んでいた所で、右手にある八幡神社は昔は鮫頭八幡と呼んでいた。その昔、品川沖でとれた鮫の腹から正観音像が出て、これを本尊にしたのが前述の海晏寺、その鮫の頭を祀ったのがこの神社だと伝えられている。道は800mほどで立会川を渡る。ここにかかる橋が浜川橋、江戸時代にはこの先の鈴ヶ森の刑場に送られる罪人と家族とがここで別れの涙を流した所というので「涙橋」という別名がある。 間もなくコンクリートの塊のような高速道路が見えて来る。第一京浜国道(国道15線)と合するところが、「鈴ヶ森」で、刑場があり昔は淋しいところであった。芝居に出て来るような場面は今は全く想像できないほど自動車の列で埋まって居る。現在小公園がこの地を忍ぶ唯一のものである。ここで処刑されたのは、丸橋忠弥をはじめ、天一坊、白井権八、八百屋お七、白子屋お熊など、多数にのぼる。
 旧道はここで終わりで、あとは京浜第一国道になり、その先で一部旧道が残っているところがあるが歩くには適さない。鈴ヶ森からは京浜急行の大森海岸駅が近い。

☆行程
地下鉄泉岳寺駅⇔高輪大木戸→東禅寺→北品川 約2km,40分
北品川(品川宿)→青物横町→鈴ケ森→京浜急行大森海岸駅 約6km,1時間半
東海寺など寄り道して 約2km 40分

☆地図
人文社  広域都市地図 東京南部
昭文社  東京区分地図 品川区

 

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