2. 広重は間違えたのか? 木曽街道「笠取峠の松並木」の疑問(1版)

広重・英泉の「木曽街道六十九次」はつとに有名だが、そのうち「笠取峠の松並木」を描いたという「あし田」の絵が気になる。(図1)が「あし田」の絵、そして(図2)が「望月」の絵である。どうも広重は絵の素材を間違えたのではないか。或いはつける題を間違えたのではないかという疑問である。 今回はこの疑問を話題にしたい。

図2「望月」
図1「あし田」
なお資料として小学館発行の浮世絵大系『木曽街道六十九次』(51.8.20.発行)を使用した。
この疑問に入る前に木曽街道六十九次の笠取峠、望月のあたりを少し案内しよう。
 木曽街道とは「中山道」の別名で険阻で有名な木曽谷を通ることから巷間で呼ばれた名である。京(京都)から近江(滋賀県)、美濃(岐阜県)を経て木曽谷(長野県)に入る。木曽谷を抜けると塩尻、そこから下諏訪を過ぎ和田峠を越える。越えた所が和田宿で、そこから長久保、芦田を経て望月に至る。この長久保と芦田の間にあるのが「笠取峠」である。この芦田の先望月から八幡の間には、坂が二つある。瓜生坂と金山坂である。この八幡の先、塩名田、岩村田と江戸(東京)への街道は続くが、江戸から来れば当然この順序は逆である。便宜上京からの道筋で扱うことにする。ここで問題にするのは、この「笠取峠」と「瓜生坂」「金山坂」である。広重が描いた絵に疑問があるからである。
この和田宿から笠取峠を越え望月を経て八幡に至る旧道の区間は、いわゆる東信南部の古くから開拓され、歌や紀行文で都にも知られて来た地方だが、最近の観光ブームに案外荒らされて居ないので、古いただづまいを味わいながら歩くことができる絶好の散策路が幾つもある。その絶好の散策路の一つがこの笠取峠なのである。
 笠取峠は長門町の長久保から歩く。広重の「木曾街道六拾九次」の「長久保」は、和田との間の依田川にかかる落合橋を画いて居る。このあたり今でも広重の絵の風景が残って居る。旧道は間もなく国道に合する。大門といい、戦後、長久保村と大門村が合併して長門町となった。ここで道は二つに分かれ、一方を大門道といい、武田信玄が東信を侵略するためにさかんに使ったルートで「中の棒道」と呼んだ。現在は大門峠を越えて白樺湖、蓼科、霧が峰へ行く道であり、茅野に通 じて居る。元の長久保宿は長門郵便局のあたりから始まり、旧道筋に古い家も何軒か残って居る。しばらく歩くと丁字路に当たる。真っすぐに行く道が丸子へ行く道、旧中山道は右折する。角に道しるべが半ば土の中に埋まった形で残っている。右折してすぐあるのが釜成屋、もと造酒屋であった。その斜め前の立派な門のある家が、元の本陣だった家である。この先は国道、いい道だが車は少ない。九十九折を登りきった所が笠取峠上。現在、学者村別 荘地入り口となっており、管理事務所がある。峠上から10分ほど歩くと松並木が見えてくる。国道沿いに松並木が続く。立ち枯れたもの、欠けている所もかなりあるが、松並木としては素晴らしいものである。途中から国道は別 に平行してバイパスが造られ、旧道が松並木ごとそのまま残された。長野県が力を入れて保存して居るようだ。国道部分のものとあわせると、1km以上の長い区間になる。これだけの松並木が残って居る所は中山道では他にはない。東海道には規模は小さいが大磯(神奈川県)、舞阪(静岡県)、御油(愛知県)などの松並木がある。松並木が終わった所から少し行くと四つ角、ここから芦田宿に入る。ここは昔もたいした宿ではなかったようだ。壬戎紀行には「蘆田の駅も又わびしき所也」とあるが、今でも小さい町並があるだけ。ただ元の本陣「つちや」の立派な門構えの建物が残って居るほか、元の脇本陣も古い門構えと建物の一部が残って居る。

図3 13年前に撮った現地、笠取峠の松並木

その先旧道を行けば茂田井のもと間の宿で、それを過ぎると間もなく望月のもとの宿場である。ここには古い建物はあまり残ってないが、町のただづまいは古い静かな雰囲気である。望月には古代官牧があった。官営の牧場で主として馬を飼った。その跡が地名として付近に残っている。毎年貢馬を信濃望月の馬として叡覧に達せられたという。歌に詠まれたことも多い。そのうち紀貫之の有名な歌を紹介する。
 「逢坂の関の清水に影見えて 今や牽くらん望月の駒」
平安当時東国32牧の筆頭で1年間信濃の貢馬80頭中20頭をこの牧から献上していたという。時期としては律令制より前から馬飼いがいたようで、その後前述のように官牧になり、朝廷の力が衰え官牧の制が廃れてからも、鎌倉室町期の中世まで駿馬の産地としての名が高かった所である。
宿はづれで鉤形に曲がり鹿曲川を渡る。(真っすぐに行っても別に橋があり同じ所に出るがそのルートは旧道ではない。)崖の上に弁天堂があり、その下に芭蕉句碑があった。刻まれて居る字がよく読めないので句は不明。坂を上りトンネル手前で左の道を行く。かなりの登り坂だが、そう長くはない。これが前述の瓜生坂。坂の上に百万辺石碑があり、道端に数基立つて居る。そのそばに「望月一里塚」が残って居る。両側に小丘があるが目立たないので表示がなければ見落とす所である。ここから金山坂を下りる。下りた所が百沢で広い道に合する。このあと八幡まで一部旧道が残って居るが殆どはこの広い道を歩く。どこからどこへ行くのかやたらに車が多い。2kmほど行くと元の八幡の宿である。ここで見るべきものは、元の本陣の門構えと八幡神社。この神社があるが故に八幡宿の名ができた。貞観元年(859)に御牧の管理をして居た滋野貞秀の創建という。平安時代以降武士の崇敬の厚かった神社で吾妻鏡にも「佐久八幡宮」という記述がある。正面 の鳥居をくぐると堂々たる楼門(随身門)があり、天保14年(1843)完成のものという。この奥の社殿の隣に「高良社」とよばれる旧本殿は安永10年から元明3年(1781~83)建立のもので、重要文化財に指定されて居る。気になるのはこの「高良社本殿」とある表示である。祭神は武内宿禰でその神号「高良玉 垂命」にちなみ高良社と呼ばれて居るということだ。それとこの八幡社との関係はどうなのか、九州の久留米にある「玉 垂高良社」との関連、また「高良」(こうら)とは「高麗」(こうらい_こうりょ_こま)と同義で高麗からの渡来人のもたらした神だという説も無視できない。この点、由緒を詳しく調べたものがないので、気付いた点を指摘するに止める。
以上で付近の散策路の案内を終わるが、そこで本題の疑問に取り掛かろう。次の2図をよく見て頂きたい。
この(図1)は「あし田」の絵であるが、この図を見て皆さんどう感じられますか?。「笠取峠の松並木」を描いたというのだが、私にはどう見ても松並木には見えない。杉木立かせいぜい杉並木である。広重は何故こんな珍奇な松並木を描いたのか?。
一方、「望月」の図は(図2)のように立派な松並木が描かれている。 現地を知っている人、あるいは現地を歩いたことがある人なら、誰でもすぐ気が付くはずだが、この2枚の絵と現地の風景は全く合わないのである。現地を知らない人の為に(図3)を用意した。これは私が13年前に撮った現地、笠取峠の松並木の写 真である。これと前記の(図2)「望月」を見比べて見ると、よく似ていることが分かる。これから私の推定だが、広重は「望月」の所で笠取峠の絵を描いたのではないかと思う。一方「あし田」の所では笠取峠ではなく別 の場所を描いたものと思われる。瓜生坂とするには少し風景が合わない。その場所とは何処かは今は断定できない。
ここで、小学館発行『木曽街道六十九次』の巻末解説を見る。 「あし田」は「この芦田を出て、笠取峠に向かう上り坂あたりのアカマツの並木は美しく、天然記念物に指定されている。広重描く図は、この笠取峠を取材したものである。」云々。とある。
また「望月」については、「広重の図は、その瓜生峠の上り下りを描いたものである。街道筋に巨大な松並木が続き、」云々。とあり、「実際には一間半ぐらいしかない街道を、構図上から幅の広い道のように描いたためか、私にはやや散漫な感じがする。数年前現地調査したとき、松並木がすっかり切られていたためかも知れない。」といっている。
この解説によれば、「あし田」の絵は笠取峠の松並木を描いたものであり、「望月」の絵は瓜生峠(坂)の上り下りを描いたものであるという。ところが、この絵と現地の風景は全く合わないのである。この点は前に指摘した。解説者は現地を見たといっているが、浮世絵の解説をするくらいだから風景には鋭い感覚があると思われ、少し疑問を感じているらしい。「私にはやや散漫な感じがする。」といい、その理由として「数年前現地調査したとき、松並木がすっかり切られていたためかも知れない。」といっている。しかし瓜生坂はかって松並木があったような所ではないし、松並木が切られたという記録もない。笠取峠の松が伐採されたということはあった。従って解説者もまた瓜生坂と笠取峠を間違えているとしか思えない。だから疑問だというのである。

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