1. アッピア街道の松並木(1版)

アッピア街道は、ご存じの方が多いと思うが、ローマ帝国がその最盛期にローマから地中海沿岸までの長い区間に建設した道路で、軍事、政治支配のために専ら使用された。西暦紀元前312年、ローマからカプアまで建設され、その後イタリー半島の突端(長靴の踵の部分に当たる)のタレンツーム(ターラント)まで延長された。当然ながら馬車の通 行が前提で、敷石で舗装されていた。現在でもローマを少し離れて初期キリスト教の旧跡カタコンベや、古代ローマの兵士の墓を見学しに行く途中、この街路を通 行することがある。また古代ローマ時代そのままに石を敷き詰めた道が一部保存されている。さらにナポリへのバスの車窓からは何回か眺めることもできる。私は次の機会には是非この「アッピア街道」を徒歩で或いは車で走破したいものだと念願している。

Via Appia
日本でも律令制が布かれた時代に大和から日本の各地に向かって幾つかの官道が建設された。有名な吉野ケ里遺跡でも、弥生遺跡とともにこの時期の道路遺跡が発見されて居る。これらの道路は日本では殆ど消滅または埋没してしまい、現在これを見ることも、歩くことも不可能に近い。
また、日本と西欧というか中国、西アジアを含めて大陸との、交通手段の大きな違いは、日本では大陸で発達した馬車がついに根付かなかったことではないかと思う。平安時代の源氏物語や絵物語に牛車(ギッシャ)が貴族の乗り物としてよくでてくるが、それも広くは普及しないまま消滅した。交通 手段として馬車が登場するのは明治になってからである。
私は数年前にイタリー半島を半月かけて旅行した。その時、この「アッピア街道」を見たのだが、ひとつの疑問を抱いたまま帰国した。以前ローマを訪れた時、前述のカタコンベを見学するためこの街道を通 ったのだが、その時にはあまり印象がない。
今回抱いたその疑問とは、松並木のことである。稚拙なポンチ絵を見て戴きたい。印刷のことを考えて写 真を同時に載せるが、これが松並木なのである。ポプラの並木のようだが松並木だという。「かさ松」とも「地中海松」ともいうが現地では単に「松」である。植物の知識が乏しい私でも日本の「松」とは別 種だと思うのだが?

日本の「松」とは別 種?

枝のつき方が日本の松とは全く異なる。手入れの仕方にもよるが、下枝を刈り取り上の方をこんもりさせている。杉の手入れの仕方と同じようなことをしているのかもしれない、その手入れの方法は?。二千年以上もたつ樹齢の木々だとはとても思えないが、植え替えなど、何代目か?。という極めて素朴な疑問である。帰国後、イタリー政府観光局やイタリー文化センター等を訪ね、私なりに調べてみたが、日本にはこの疑問を解く文献が見当たらず、この疑問はいまだに氷解していない。日本人でイタリー旅行をした人はこれまでに数限り無く多く、その中でこのアッピア街道を見た人も多数おり、疑問を抱いた人がいないはずはないと思うのだが。
或いは解決済みの問題なのかもしれない。 以上の疑問について、読者の中にこの回答をお持ちの方、或いはその手掛かりを与えられる方がおられたら是非ご教示をいただきたい。

参考:http://www.freeroad.co.jp/freeroad/kai18.htm

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