(二四)高崎近辺を歩く(その二)
   高崎→佐野→浅間山古墳→大鶴巻古墳→倉賀野→岩鼻→新町

 前回述べたように高崎市内は戦災と道路拡張で古くからのものは殆どなく、昔の面影はあまりない。しかも倉賀野まで旧中山道は広い道(旧国道)に吸収されてしまって、車の多いこういう状態の道を歩くのは快適ではない。そこで今回は高崎から倉賀野まではもとの街道でなく脇道を行くルートを述べることにし、倉賀野から先は、岩鼻を経て新町まで旧道をたどることにした。

 高崎駅から駅前通りを行き前回の角から城址公園に出る。この公園の奥に頼政神社がある。頼政は源頼光の玄孫で歌人として知られ、また鵺退治(ぬえたいじ)で名を残して居るが、平清盛の奏請によって清和源氏として初めて従三位に叙せられたので源三位と称せられた。後清盛に不満を抱き以仁王を奉じて平家追討の軍を挙げ、敗れて宇治の平等院で自刃した歴史上の人物である。高崎城主となった大河内輝貞が元禄の頃(1688~1704)大河内家の祖先としている源頼政を城東の石上寺の境内(現在宮元町)に祀ったのがはじめである。その後宝永7年(1710)に輝貞が越後村上に移封されると、神社も村上に移された。そして享保2年(1717)に再び高崎城主になると、神社を現在の地に遷坐したのだという。城主の移転と共に神社が遷坐して行きまた元へ戻ったというのは珍しいケースである。また境内には元高崎藩士であったキリスト教徒内村鑑蔵の記念碑が建って居る。
 ここから裏道を通って行くと上信電鉄南高崎駅に出る。その先踏切を渡って国道17号を陸橋で越えると「こんぴら」である。このこんぴらは俗に「多仲こんぴら」といい、庶民の信仰を集め、縁日には参詣人が多く屋台の店が並ぶ。境内はそう広くもないが、摂社がいくつもある。天満宮、稲荷神社、飯玉社など。またここは神仏混淆の神社で仁王門がある。その表には神官像一対、裏には仁王像一対が収められて居る。社殿は小山の上にあり、その石段の前に、「からす天狗」の石像が一対ある。「こんぴら」は、一般に航海の神、海難救助の神として知られる。一方天狗は山岳信仰に関係がある。その海の神を守るように神社の拝殿の前に山の天狗が立っているのは一見奇妙な感じがするが、その由来を調べてみると、金刀比羅宮つまり「こんぴらさん」と修験道・天狗とは江戸時代にはかなりのかかわりがあったようだ。この頃の旅風俗を描いている広重の「東海道五十三次」沼津の絵には、金比羅参りの男が天狗の大きな面を背中に背負って歩く姿が画かれて居る。江戸時代、金比羅参りには天狗の面を奉納するしきたりがあったらしい。また金比羅つまり琴平宮のある山、象頭山は山岳信仰・修験道の山であった。江戸時代修験者によって唱えられた「天狗経」には日本中の高山にまじって「象頭山金剛院」の名がある。そして琴平宮の祭神は大物主神だが、もう一柱崇徳上皇が祀られている。崇徳上皇は周知のように保元の乱により讃岐に流された。上皇は都への帰心が強く、その願望がかなえられないまま亡くなられたが、その時、「怨念によりて、いきながら天狗のすがたにならせ給ふ」と保元物語に記されているのは有名な話しである。その亡くなられた翌年永万元年7月(1165)に金比羅宮にその御霊を祀ったという。そこで金比羅というのは天狗になった崇徳院の御霊であるという伝承もある。こうしてみると、金比羅宮に天狗の石像があるのは当然で、奇妙と思うのがおかしいということになる。

 さて表通り(国道17号線)に出てすぐ右への細い道が佐野への道である。この細い道は鎌倉街道であったという説もある。謡曲「鉢の木」に出て来る有名な佐野源左衛門常世はこの地佐野の人である。私は不明ながらここへ来るまで栃木県の佐野だとばかり思って居た。(後に聞いた話しでは、栃木県佐野市にも佐野源左衛門のゆかりの地があるという) この佐野には「常世神社」がある。そこに「佐野源左衛門常世遺跡」という大きな石碑が建っている。新幹線が上を通って居て、以前と風景は一変して居るだろうが、中世の古道はここで烏川を渡り、根小屋、藤岡を経て武蔵に至って居たという。
 この手前に佐野船橋歌碑があり、万葉の歌が刻まれて居る。文政10年(1727)建立のものという。
「かみつけの佐野の船はしとりはなし 親はさくれとわはさかるかへ」
という東歌が2行に刻んである。
この由来について木曾名所図会には、「佐野むらにあり。むかし烏川を船橋にて渡せし、その橋をつなぎし榎の大樹今にあり、木かげに舟木の観音の石仏あり」云々と記している。 またこの先に「定家神社」という神社がある。新古今集に
「駒とめて袖打はらふかげもなし さののわたりの雪の夕暮」
という歌があるが、これによったものか。あるいは藤原定家の子孫である藤波為茂による「定家大明神之縁起」(元禄7年、1694)に、定家の死後ここを垂跡の地として崇めていたとあるので、古くからのものだともいえる。だが現在は空き地に小さな社殿があるのみである。ここまで「こんぴら」から前述の細い道をたどること約2km,歩行およそ30分である。

 ここから田舎道を曲がり曲がりしながら、旧国道(バイパス国道17号線は別のところを通っている)に出る。歩行15分くらい。旧国道に出るとすぐ右に小丘が見える。以前は田んぼの中だったろうが、今は家が近くまで建って居る。これが「浅間山古墳」である。前方後円墳で全長176m、先に見た観音塚古墳よりもかなり大きい。木が茂り薮が深いので上に登るのは難しく外形を見るだけ。ここから10分ほど歩くと「大鶴巻古墳」、全長137m、そして隣に「小鶴巻古墳」がある。このあたりには以前は古墳が多く残されて居たが、農地になったり、開発されたりで失われてしまった。
 旧道に戻り倉賀野の町に入って最初にあるのが「安楽寺」。天平時代(729~749)のものと伝えられる異形板碑2基、安永4年(1775)の庚申塔などがある。この先に高札場跡、そして須賀本陣の昔のままの門構えが残って居る。また街道から中へ入るが、倉賀野神社がある。もと「飯玉大明神」といい倉賀野の総鎭守である。
 倉賀野宿は烏川の水運で栄えた所で、江戸から江戸川、利根川と遡ぼり、この地で荷物を揚げて荷駄に積み替えた。今も倉賀野河岸の跡があるという。だがその跡を見ただけでは、往時の水運の様は想像できない。ダムや用水などで川の流れそのものが小さくなり、広い河原にちょろちょろと水が流れて居る現在の川の姿からは水運盛んな様を想像するのは無理である。また昔の水運と荷駄の施設もあったはずだが、時の経過とともに消滅してしまって居る。わずかに八幡宮、大杉神社跡が川べりに残って居て、その痕跡とするくらいである。
 中山道宿村大概帳によると、宿内人別、男1047人、女985人、計2033人、家の数297軒、本陣1、脇本陣1、旅籠33で宿場としてはかなりの規模である。宿場は上町、中町、下町に分かれ、それぞれに問屋場があり月十日づつ交替に継ぎ立てをした。旅籠には飯盛女が置かれ、その数が多すぎて弊害があったとみられ享和3年(1803)には手入れが行われ刑に処せられた者が出ている。

 さて旧道を行くと倉賀野の町はずれに二股がある。下町追分といい、日光例幣使街道の別れ道である。道標と常夜燈が立って居る。常夜燈は文化11年5月(1814年)の建立で、建立協力者の名が彫られて居るが、その中に当時の力士の名がある。柏戸、雷電、鬼面山などの力士の名とともに、木村庄之助、式守鬼一郎の行司の名もある。
 例幣使街道というのは、日光東照宮へ参詣の勅使がつかわされた時に使用した道で、京都から中山道を下り、倉賀野で別れ、玉村、五料、木崎、太田を経て下野(栃木県)に入り、八木、佐野、栃木から楡木で日光壬生街道に合し、今市に達し、日光に至った。江戸幕府はこれを重要なルートとして道中奉行のもとで管理して居た。例幣使が通る時の街道筋の気の使い方は、上は役人から、宿場の関係者、下は周辺の百姓に至るまで大変なものだったらしく、また例幣使側にも付き人を含めかなりの我儘、狼藉など行き過ぎがあったようだ。藤村は小説『夜明け前』の中で「お肴代もしくは御祝儀何両かの献上金を納めさせることなしに、かってこの街道を通行したためしがないのも日光への例幣使であった。」と記して居る。

 旧中山道は右へ行く。工場の間の道をしばらく行き、鉄道を陸橋で越える。このあたりが東京・日本橋起点でちょうど100kmである。その表示杭があった。勿論旧中山道の距離ではない。現在の国道の距離である。17号バイパスと交差し岩鼻の町に入って行く。ここには昔「岩鼻陣屋」があった。
 群馬県史によると、岩鼻陣屋は上野国内六郡の天領統治のための役所として寛政5年(1793)に置かれたもので、その後幕末、慶応元年(1865)木村甲斐守のときに「関東郡代」と称して上野、下野、武蔵3カ国の幕府直轄地50万石を管理していた時期がある。しかし間もなく明治維新で廃止されたので4年間である。なおそれ以前「関東郡代」は代々伊奈家が所掌し、始めは武蔵の伊奈村、後赤山に移った。今その跡が上尾の東、浦和の東にそれぞれ残って居る。また岩鼻には明治維新の時岩鼻県が置かれ、上野国内及び武蔵国西北部の旧幕府領、旗本領を統治した。明治4年群馬県の発足とともに廃止された。
 岩鼻の町並は短いが古い感じが残って居る。十字路があり、右へ行く道が柳瀬橋への道、左への道が先に別れた例幣使街道へ抜ける道である。十字路の手前に寺があり観音寺という。この裏にあるのが「岩鼻陣屋」跡である。広場になっており、社がある。公園のようでもあり、そうでもないような残され方で、人工が加わっていないのがむしろ風情がある。その前の道が前述の四つ角から左折して来た道である。この道を東へ10分ほど行くと「群馬の森」公園に出る。
 さきの四つ角を真っすぐに行くのが旧道で、300mくらい行くと烏川(柳瀬川)の土手にぶつかる。昔はここから舟で対岸に渡った。現在は先に述べた柳瀬橋を渡り、対岸の土手を500mほど行って土手を下りるというコースをとらなければならない。土手を下りると旧道がある。この旧道はこの先完全には残って居ない。多分川の氾濫などで付け変えられ、また堤防の改修などで途切れたものと思われる。そこで旧道を探りながら土手の上或は土手の下の道を歩くことになる。そして高速道路をくぐってから、右の道をとる。しばらく歩いて立石新田の集落を過ぎると小さな橋がある。ここが広重の新町の絵にある橋で下の川は温井川だとされている。この広重の絵には山と崖、そこを流れる川が描かれているが、現地の状況はそんなに近くに山も崖もない。絵と現地の状況はかなり違う。比定する場所が違うのではないかと私は疑問を持っている。橋のたもとに弁天社があり、芭蕉の句碑が立つ。
「むすぶより はや歯にひびく しみずかな」
安政2年(1855)建立のもの。 
 橋を渡ると間もなく新町の宿になる。町並は道が広くなって居るが、昔のまま。だが古い建物は殆ど残って居ない。宿の中程、新町駅への交差点の近くに郵便局があり、そこを曲がって400mほど行くと新町駅である。


☆行程 
高崎→佐野→浅間山古墳→大鶴巻古墳→倉賀野    6km
倉賀野→岩鼻→新町    8km
  計       14km、約4時間半

☆交通  
JR高崎線の高崎駅、倉賀野駅、新町駅を適宜利用する。

☆地図 
国土地理院 2万5千分の1 高崎、伊勢崎、本庄

☆参考 
高崎から「こんぴら」そして佐野へ行く道は脇道で狭いが車は少ない。佐野から「浅間山古墳」を経て「大鶴巻古墳」までは田んぼの中の道で、すぐそばの「小鶴巻古墳」の先が倉賀野の町である。倉賀野からは大体において旧道を歩く。岩鼻の柳瀬橋からは歩くによい道が続く。

 

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