(二三)高崎近辺を歩く(その一)   安中→板鼻→観音塚古墳→上野八幡→達磨寺→高崎

 今回は、安中から高崎まで歩く。途中板鼻から横へそれ、観音塚古墳に立ち寄り、上野八幡に詣で、そして達磨寺に登り、高崎に出て少し残った旧街道筋を歩く。街道そのものの外近辺の史跡なども訪れる。行程約14km,4時間くらいである。

 安中駅を降り、駅前の道を真っすぐに行くと、旧道にぶつかる。旧道は前述の安中の宿はずれで国道と合した所から先、碓氷川迄延びて居るが、川で途切れ対岸から復活する。このあたりが中宿である。道端にかわいい道祖神があった。道祖神は信州にも多かったが、上州路にも多い。たいてい男女二人が連れ添っている形でほほえましい。集落の横町に庚申塔がある。道標にもなって居て「一の宮道」と彫ってある。一の宮とは富岡にある貫前神社のことである。碓氷川を再び渡るが、旧道は碓井川で途切れるので国道に出て、鷹の巣橋を渡る。橋の手前に神社があり、「明治天皇小休止所」の石碑があった。ここは合の宿でもないのに、旧家でもあったのだろうか。その隣が蓮華寺、栄朝禅師の木像がある。鎌倉時代の作で群馬県指定文化財になって居る。橋を渡るとすぐ右へ旧道はそれる。国道の左が崖になって居て、その一帯の山がもと鷹の巣城があった所だといわれて居る。
 ここから板鼻宿に入る。今酒造家十一屋のある所がもと牛宿であった。牛宿というのは荷物の継ぎ立て所の役割を果したもので、公儀、乗馬役人の定宿でもあった。その前に双体道祖神があった。この先の安中市役所出張所はもと木島本陣跡、皇女和宮が泊まられた宿だという。今は表示だけで何も残って居ない。この町は道は広げられ古い建物は少ないが、昔の宿場町の雰囲気はある。
 ここで見ておきたいものは、称名寺、山の手に入り国道を越えた所にある。鐘楼の前にある木が佐野源左衛門の手植えの紅葉といわれ、今の木は3代目である。この裏手の中学校があるあたりに伊勢三郎屋敷があったと伝えられて居る。

 板鼻宿のはずれ、信越線のガードをくぐる手前にT字路があり、道標が立って居る。「はるな、くさつ、いかほ」と彫ってある。ここを右へ行くのが旧中山道だが、この先ガードから500mぐらいで国道18号線にぶつかる。その先には旧道はない。2km半ほど先の豊岡まで国道に吸収されてしまっているので、車の多い危険でいやな道を行かねばならない。そこでここではこのルートを避け裏道を行くことにしたい。
この角を左へ曲がって榛名、草津、伊香保道の方へ行く。国道を越えて上り坂を10分ほど歩き、畑の中の小路へ右折する。間もなく緑の小丘が見えて来る。その緑の木で覆われた丘は群馬県下でも有数の前方後円墳で「観音塚古墳」という。全長105m,幅105m,前方部の高さ14m,かなりの規模である。古墳は国の史跡、出土品は重要文化財に指定されて居る。但し戦争末期の1945年(昭和20年)3月、防空濠を造る目的で発掘中に取り出されたもので、学術調査を経ない発掘であったためその発掘状態ははっきり分からないのが欠点だといわれる。古墳の前に陳列館があり出土品を展示して居るが、閉館中で私は見ることができなかった。ただここの特色は囲いなどなくわりと開放的で石室の中に入れることだ。模造や復元ではなく本物の古墳の石室の中に入って内部を見られるというのは極めて珍しい。
ここから畑の中の道を20分ほど行くと大きな社叢が見えて来る。「上野国一社八幡宮」である。広々とした境内と鬱蒼たる社叢、そして立派な本殿。この八幡宮は「八幡太郎奥州下向の時此所に一宿ありし旧跡」といい天徳元年(957)に山城の男山八幡を勧請したものと伝えられる。また源頼朝が義仲を追討した時社殿を修復し、下って武田信玄が上州攻略に成功しこの祭典を司って居る。江戸時代には幕府の崇敬篤く、社殿から末社に至るまで建て直された。現在の社殿は元禄の頃のもの。この「上野一社」としている由来は知らない。上野国一の宮は古くから富岡にある「貫前神社」であるので、一の宮とは違う意味で上野国一番の神社ということか。
 ここにはまた、多くの算額が奉納されて居る。江戸時代後期、和算が発達し、和算研究家が自ら難問を出し、この解答を得た者が神社にその問題と解答及び経過を書いた額を奉納した。これを「算額」という。この算額を掲げた神社が上州には多い。前回通った碓井峠上の熊野神社にもこの算額が奉納されている。なお算額について佐藤健一著「和算家の旅日記」によると、算額のある場所として一番多いのが福島県の103、埼玉県91で、群馬県は4番目で71である。
それから太々神楽が完全な形で残って居るのもこの神社の貴重な遺産で、無形文化財に指定されて居る。境内に立派な鐘楼があるのも面白い。神仏混淆の残滓といえる。楼門をくぐる。恐らくここにも明治以前には仁王などの仏像が両側に置かれて居たと思われるが、今は八幡宮の大きな提灯が一つづつ下がって居る。
 この先が参道で真っすぐに中山道まで通じて居る。中山道に出る手前に大きな鳥居がある。このあたりの旧中山道は前述のように国道18号線に吸収されている。少し国道を歩き少林寺へ寄り道する。碓氷川の橋を渡り左折してしばらく行くと、少林山達磨寺の下に着く。門をくぐり急な石段を息を切らしながら登る。まず目に付くのは大達磨を並べたお堂である。この寺は黄檗宗(禅宗の一派)で16世紀末に帰化僧、東皐心越が水戸光圀の帰依を得て建立したといわれ、亨保2年(1722)前橋城主酒井忠知が改修し祈願所とした。この寺でははじめ心越禅師の達磨の張紙を出して居たが、その後張子達磨を出すようになり、正月6日から7日にかけての縁日には境内に達磨店が並び関東一円の参詣人で賑わう。 境内は広く、ゆっくりと静寂の気分に浸れる所だが、最近再び訪れたら大きな工事をしていた。公園にでもするつもりらしい。あまり加工しない森のほうがいいと思うのだが、それは私の勝手な好みか。この境内の東に、ドイツの建築家ブルーノ・タウトが一時住んで居たという「洗心亭」がある。純日本式の建築で、彼はここが気に入り、ここで数々の著作をものにした。

 山を下り橋を渡って国道に出る。その国道を車が多くて歩きずらいが、我慢してしばらく行くと、藤塚一里塚がある。群馬県下唯一の一里塚で県の史跡となって居る。北側のは木はなく富士塚として社があり、少し崩れては居るが塚は残って居る。南側のは見事な榎の木があり、ほぼ完全に残って居る。
 この先少し行くと旧中山道が左へ分かれる。豊岡の立場があった所である。昔のままの門構えの建物があり、元豊岡茶屋本陣であった家で、昔の面影を残し県の史跡に指定されて居る。現在、子孫で郵便局長の飯野氏が住んで居られるという。町の中程に、若宮八幡がある。わりと広い境内。壬戌紀行によると「鐘楼ありて木立物ふりたり」とあり、また諸国道中旅鏡には「八幡太郎腰掛け石の旧跡なり」とある。鐘楼も腰掛け石もないが、物ふりたりという雰囲気は今でもある。この先二股があり道標が立って居る。読みにくいが「はるな くさつ道」と彫ってあるようだ。すぐ国道だが、それが改良されたため、昔からある万日堂は土手の下になって居る。しかもこの小堂は最近建て変えられたものである。 烏川にかかる君ガ代橋を渡る。昔は舟渡し、明和七年(1770)に橋が架けられ、以後橋銭が課せられた。旅人一人5文、荷駄1駄5文、冬季は8文であったという。現在この国道は橋のところで立体交差になって居て、橋を渡った先で旧道が分かれるのだが、それを探すのに苦労する。その旧道はこの広い通りから細い道を右に入って行く。このあたりが並榎町で、すぐ歌川町になる。並榎町、歌川町のあたりは旧中山道の雰囲気がそのまま残って居るようだ。しかしこのへんはもとからの高崎の町ではない。並榎村、赤坂村であった。細い道をしばらく歩いて常盤町の所で左折、その先赤坂町になるが、そこにある長松寺を訪れる。この寺は大きな寺で、戦災を免れた古い本堂には、狩野探雲67才の時の作という天井絵があり、天井一面に竜の絵が描かれている。また「涅槃絵」があるが保存上2月中だけかけておくという。それと「松平忠長切腹の間」というのが残されて居る。松平忠長は徳川秀忠の二男で父に溺愛され、将軍職の後継を決めるに当たり彼に将軍職が譲られるのではないかとの噂が流れ、家光の乳母であった春日局が駿府に居た大御所・家康に直訴したという有名な話がある。結局家光が3代将軍になり、忠長は詰腹を切らされる。その場所がここだという。高崎市内は前述したように旧街道は殆ど残って居ないし、旧跡で見るべきものは少ないが、この寺を訪問したのは収穫であった。なお忠長にかかる遺跡はもう一ケ所ある。この先田町の角を左折していった所に大信寺があり、ここに彼の墓がある。この大信寺は江戸時代には朱印領地百七石という城下第一の寺であったが、今はその面影はない。
 間もなく、高崎神社がある。由緒が書かれた表示板があったが、傍らに立つ会館か結婚式場のビルが立派で、それに比べて社殿が貧弱なので、勿体ないが神社はまるでが結婚式場ビルの付属施設のような感じである。
 この先の十字路が、もとの三国街道との分かれである。渋川、沼田を経て三国峠を越え、長岡から出雲崎に出て、佐渡へ渡る。江戸と佐渡金山を結ぶ重要な連絡輸送ルートであった。このへんが本町(もとまち)、少し行くとまた十字路、左が前橋道である。旧中山道は右へ曲がる。前述したように戦災と道路拡張で古いものは何もなく、昔の面影は全くない。

 高崎は中山道の中では最も繁華な宿場町のひとつであった。と同時に高崎城の城下町でもあった。古くは赤坂の荘といわれ、鎌倉時代には和田氏の居城があった所なので和田宿と呼ばれ、鎌倉街道の重要な宿駅であった。戦国時代末期、小田原の北条氏の滅亡とともに和田氏も滅び、徳川家康が江戸に入った時井伊氏の居城になる。その後、酒井、安藤、大河内(松平)間部、大河内といくたびか城主がかわった。
 この宿には本陣、脇本陣はなかった。旅籠15軒、人家は837軒で、人別(人口)男1735人、女1500人、計3235人で、前回の松井田が1009人であったのと比べて約3倍、今まで越えて来た宿場からみると、近江の高宮とほぼ同じ、美濃の加納の2728人より大きい。
 問屋場は本町、田町、新町に1カ所づつあり、交易の市がそれぞれ月に6度づつたてられた。絹、真綿、たばこなど近郊の産物が売られ、また越後への前述の三国街道、富岡、一の宮、下仁田への街道の分岐点でもあり、交通、商業の要地として栄えて居た。
 さてこの道をたどって更に行くと新町(あらまち)になる。駅前通りがこの道に突き当たる所、ここに珍しい土蔵造りの社殿がある。文化十一年(1814)に造られたもので、屋根は城の櫓のようである。表示はないが壬戌紀行に「諏訪大明神の社はちいさき土蔵づくりなり」とある諏訪神社であると思われる。道路改修のため脇に小さくなって移されて居るので注意しないと見落とす。旧中山道はこの先もずっとこの広い道に吸収されてしまって居る。
 高崎駅へはこの駅前通りを左へ行けば5分くらいである。


☆行程 
安中→板鼻     4km,
板鼻→観音塚→上野八幡宮→達磨寺→高崎   10km
  計     14km、約6時間(見学時間を含む)

☆交通  
安中まで  JR信越線、安中駅
板鼻まで  高崎駅から群馬バス安中または松井田行き、この国道にはバス便があり、1時間に4本くらい通っている。

☆地図 
国土地理院 2万5千分の1 下室田、富岡、高崎

 

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