(二二)西上州の中山道    横川→松井田→磯部→安中

 今回は横川駅を出発点にして安中駅まで歩く。旧道がかなりの区間残っているので昔の旅を偲びながら歩くには都合がいい。
 横川駅を降り旧道に出て右折する。この先旧道はかなり残って居る。鉄道の踏み切りを越し、国道を突っ切った所に繁みがある。ここに地蔵があり、前に「百合若大臣足跡石」なるものがある。百合若大臣というのは、子供の頃お伽話しの中で強い弓を引く豪傑の一人という話として読んだ記憶があるが、こんな所に足跡なるものがあるとは面白い。この話に少し触れる。この伝説は松井田から妙義山のふもとの村々にかけて伝えられて来た。昔百合若大臣が東山道を旅して横川村小山沢まで来た時、妙義山を的にして弓を射た。豪弓の狙いたがわず、山を射ぬきポッカリと穴があいた。その穴は妙義山の峰に今でもあるという。土地ではそれを「星穴」とよんでいる。その先山を射ぬいた矢が山の向う側に落ちたので、その川を矢川川とよんで居る。その時足場にした石が足跡状にへこんだので、この石を「百合若大臣足跡石」と呼んでいるのだという。
 つい最近まで旧道はずっと続いて居たらしいが、信越線の複線工事後、鉄道と国道で分断されたので、しばらく国道を歩いた後、鉄道を越え旧道に出る。そこに碓氷神社がある。この先にあるのが「夜泣き地蔵」と「茶釜石」である。夜泣き地蔵は2体あり、前に両者の説明板があって由来が書いてある。それによると、ある日、荷を積んで来た馬方が、荷のバランスをとるために、道の脇に落ちていた地蔵の首をつけて深谷まで行った。帰りは重いので深谷に捨てて来てしまった。ところが、その後夜になると「五料恋しや」と泣き声がするので、深谷の人が哀れに思いこの首を五料に届け、胴にのせたというのである。それからこの地蔵を「夜泣き地蔵」と呼ぶようになったという。
 鉄道の踏み切りをまた越える。3度目である。越えて左折して旧道を行く。あたりは桑の木が一面に植えられて居る。その中の一軒の家で大きい小屋に蚕を飼って居た。珍しいのでしばらく見学。かっての絹糸王国日本の養蚕は一時衰退したと伝えられたことがあったが、根強く残っていたのか。或いは経済的に引き合うようになってきたのか。
 五料茶屋の表示のある所を左折する。線路を越えると数軒の家があり、そのうちの2軒が五料茶屋本陣である。一方を「お東」、他方を「お西」という。お東は昔のままで子孫が住んでおり、お西は復元されて一般の見学に供して居る。昔の大名などが休息した茶屋で、上段の間などがあり古い姿を見ることができる。

 再び旧道を行く。国道と交差、真っすぐ行くのは妙義道、左手の細い道をたどる。踏み切りを渡ると新堀の集落だが、この山側国道の先に金剛寺がある。松井田バイパスが国道と分かれる分岐点の山側である。源頼光の四天王の一人碓井貞光の開基と伝えられる。鎌倉時代にも有名な寺であったようで、源頼朝が義経追討のためその行方を鎌倉の鶴岡八幡宮以下の寺社に祈ったところ、上野国金剛寺で発見できるという神託を得たという。この記事が「吾妻鏡」(鎌倉幕府の事蹟を記した史書)の文治3年(1187)4月4日の項に載っている。
 この先に「補陀寺」の参道がある。「ふだでら」といい「関左法窟」という門額を掲げて居る。関東一の道場という意味である。なかなかのいい寺である。この寺の裏山に松井田城址がある。戦国時代末期、越後の上杉氏、甲斐の武田氏、そして相模の北条氏の間での角逐の場所であった。武田氏が滅んでからは北条氏の手に入り、後天正十八年(1590)秀吉の小田原攻めの時、この城をめぐり攻める秀吉軍と守る北条方で激しい戦闘が行われた。
 国道へ戻ると、やがて松井田の宿となる。宿入り口で右折すれば西松井田駅に出る。この西松井田駅のすぐ後ろに妙義山が人を威圧するようにそそり立つ。この山は何というかものすごい形で、私はこの山を見るごとに強烈なインパクトを与えられる。前回碓井峠のところでも指摘したが、一種独特の姿である。今回のコース、横川から松井田、安中に至る道筋右手にずっとその勇姿が拝める。

 さて、もと松井田宿、この町はなかなか大きい。江戸時代の資料「中山道宿村大概帳」に「男547人、女462人、計1009人、本陣2,脇本陣2、旅籠14」とあり、壬戌紀行にも「松井田の駅にぎはえり」とある。前にも述べたように、中山道の宿場は東海道のそれに比べて、規模は小さく、貧弱であった。宿場の人別(人口)が千人以上のところは、67の宿場のうち27しかなかった。それも殆どは江戸の近くか、近江路である。1009人というのは繁盛していた宿場といえるのである。
 しかし、今は古い建物はあまり残っておらず、幾つか残っては居るものも建て変えられて居て昔の面影はない。ここで見ておくものは、街道を左へ入った所にある八幡宮と不動寺である。
八幡宮の本殿は江戸初期の建築で県の重要文化財となって居る。そこを少し東へ行った所に不動寺がある。参道にある覆い屋根で保護された石塔婆3基、そのひとつに観応三年壬辰(1352)八月廿日とあるので今から600年前のものである。仁王門は江戸初期の建築とされており、そして不動堂の不動明王像は鎌倉時代の作といわれている。ともに県の重要文化財に指定されており、一見に値する。
 街道の中程にある十字路は、右すれば榛名道、左すれば妙義道である。この交差点横の群馬県信用組合と下駄屋の所が、もと本陣金井だが、今は痕跡もない。角の洋品屋の主人の話しでは、もう一軒の元松本本陣も何も残っていないそうである。
 宿をはずれて少し行くと、右へ行く細径がある。明治天皇巡幸の際に開いた道だとする説がある。このあたり琵琶久保という。すぐ崖下を碓氷川が流れ、右手には木立の下に石祠、石碑が立って居る。
 静かないい道を出ると国道に合する。国道を500mくらい歩くと左へ旧道が分かれて行く。国道18号のバイパスが完成し、旧道は生活道路としてそのまま残されて居るので歩く者にとってはまことに好都合である。このへんは郷原、民家の間の空き地に一里塚跡がある。また小学校の先に高札場跡の表示があった。道から左へ入った所に「自性寺」という寺がある。境内に室町時代の宝篋印塔2基があり、一つは応永3年、他は嘉吉4年に建之と刻んであった。応永3年というのは西暦1396年で足利義満が金閣寺を建てたのはこの翌年で、また嘉吉4年は1444年でその3年目に嘉吉の変があり、将軍足利義教が赤松満祐に殺されて居る。蛇足だが、[宝篋印塔」というのは、過去現在未来にわたる諸仏の舎利を奉蔵するために「宝篋印陀羅尼経」を収めた供養塔をいい、基檀上に、基礎、塔身、笠、相輪を積み上げ、塔身の四面に梵字を彫る。石造は鎌倉時代以後で、江戸時代まで続く。
 その隣にあるのが日吉神社、かなり古い神社で無人、由緒は不明。この先墓地があり、その角を右折する。真っすぐに行くのが旧中山道だが、磯部へ寄り道をする。国道バイパスを横切ってやや下り坂の道を行き、碓氷川にかかる鑛泉橋を渡ると磯部温泉である。鄙びた温泉街を想像して来たが、狭い道に旅館のビルが雑然として立つ。ここが目的ではないから素通りする。目的は「松岸寺」である。ここには古い五輪塔が2基ある。右のは正応6年4月10日(1293)、左のは一部石が欠落して居るが、正応6年3月12日とある。佐々木盛綱の墓と伝えられる。盛綱は仁平元年(1151)佐々木秀義の第3子として生まれ、治承4年(1180)源頼朝が平家討伐の旗を揚げるや、これに父とともに加わり、そして備前児島で平行盛を破って名を挙げ、のち戦功により伊予、越後の守護に任じられた人物である。有名な宇治川合戦の先陣争いで名が残る佐々木高綱の兄に当たる。その没年は不明とされているが、この五輪塔が彼の墓だとすると、それに刻まれている年月日は1293年で生年が1151年だから、両者には142年もの隔たりがある。142年も生きていたはずがないから、同人の墓とは信じがたい。とはいえ彼は正治元年(1199)頼朝の死後出家して西念と号し、この磯部の地に隠居した。後その子孫がここに住んだので供養塔を建てたのかもしれない。その名残かこの寺の南、新地に、佐々木氏の居城址だといわれている城山がある。
 またここには赤穂浪士で不人気な大野九郎兵衛の墓と伝えられるものがある。この地は元禄の頃、吉良家の領地だった所で、大石良雄と相談の上この地に潜みひそかに吉良の動静を窺っていたという説が伝えられて居る。墓碑に寛延4年(1751)とあるが、赤穂浪士の討ち入りが元禄15年(1702)だから本当の墓だとしとしたら、何才まで生きていたのだろうか。
 寺を出て集落の細い道を通り橋を渡る。ちょうど鮎釣りの解禁で、数人の釣り人が川中で釣りをして居た。岸に釣り宿があり、そこで休息し、とれたばかりの鮎を食べる。今年のはまだ育ちが悪くて、小さく身が少ないと言って居た。このへんを原市梁瀬といい、坂を登った左手に城址があった。戦国時代上杉方についた武将がこの城に拠り、武田勢に攻められ敗れた所だという。そこは城山(じょうやま)といい、原市城山稲荷があり、ちょっとした森と広場がある。ここから碓氷川を見下ろす眺望もいい。
 その先畑の中に円墳があり、昭和6年大量の首が発見された。不思議なことにみな顎がない。どこからか持って来て葬られたものらしい。梁瀬八幡塚首塚といって居る。
 ここから田舎道を真っすぐに北へ行きバイパスを越えて旧道に戻る。真光寺という寺があり、小さな「時の鐘」があった。今井本には、ここはもと立場で、茶屋本陣だった「五十見」氏宅があるとしているが、今は「里見酒店」になって居る。原市の立場だった所である。少し歩くと原市の杉並木がある。昔は見事なものであったらしいが、今はまばら、そしてもとは国道バイパスを越えた先も続いて居たが、現在はつつじの植え込みになって居て杉並木はない。
 安中の市街に入る手前を右に曲がる。しばらく行くと新島襄の旧宅跡がある。茅屋が保存されて居る。生家ではない。明治になって旧安中家臣が移り住んだ所である。彼は安中藩江戸屋敷の一隅に天保十四年(1843)に生まれた。安中藩江戸屋敷は一橋門外の地、現在神田錦町3丁目学士会館の建っているあたりにあった。この会館の南側の植え込みの中にある小さい石碑でその跡を知ることができる。彼は14才の時藩から選抜されて蘭学を学ぶようになったが、元治元年(1864)函館から脱国して米国へ渡った。明治7年帰国し、始めは京都で、後安中でもキリスト教の伝道を始めた。
 安中は宿駅だが、城下町でもあった。その面影としては旧道には古い建物は殆どなく、道幅も広がり古い町並は残って居ない。安中郵便局のある所がもと本陣跡、表示があるだけ。だが裏道に入ると若干昔の面影が残って居る所がある。大名小路、藩士の教育をした造士館跡などである。安中市は旧跡の保存、復旧に努めているようだ。表示、説明板なども整備されている。また大手前には前述の新島襄記念館、教会がある。その上が城跡で、今は文化会館になって居る。その北側が崖ですぐ九十九川、その間に国道18号が走っている。地形としては碓氷川と九十九川に挟まれたいはば鞍部に当たり、そこに城があり、町があったということだ。この文化会館前の広場に「安政の遠足」(あんせいのとおあし)の碑が立っている。我国マラソン発祥の地で、今でも毎年5月第2日曜日にここを出発点として碓氷峠上までマラソンが実施されて居る。このことは前に述べた。この先の大泉寺には元の城主井伊家、夫人等の墓がある。
 この地は古代東山道の重要な宿駅であった野尻駅(のじりのうまや)であったとされて居る。信濃国から入山峠を越え松井田に出、ここから国府のあった群馬駅(くるまのうまや)へ通じて居た。今でも上野尻、下野尻の地名が残って居る。
 宿を出て国道の橋を渡る。右手に異様な構造物が厭でも目に入る。東邦亜鉛の精錬所の奇怪な構造物、必要悪かもしれないが、あたりの景観を著しく害して居る。すぐ前が安中駅である。

☆行程 
横川→五料茶屋→松井田    約 6km 2時間
松井田→磯部→安中    約13km 4時間
計 約19km 6時間

☆交通  
松井田へ JR信越線、西松井田駅下車
安中から 同 安中駅から

☆地図 
国土地理院 2万5千分の1 松井田、富岡、下室田

 

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