(十九)佐久のあたり    八幡〜塩名田→岩村田→小田井→御代田

 このコースは佐久の田舎道を歩くことと、岩村田、もと城下町のあたりを見て、小田井の小さなもと宿場を通るのが目的である。
 八幡から塩名田までは旧道はあるが、狭いのに車の往来が激しいので、歩くにはいい道ではない。八幡神社の前から塩名田の手前中津橋まで約2km、歩行約30分である。途中見るべきものもないので、連続して歩くつもりがないなら、小諸から中津橋まで直接バスを利用して行ったほうがよい。その中津橋で千曲川を渡るが、ここは御馬寄(みうまよせ)というところで、牧が盛んな頃にはこの地に馬を集めたことにより付けられた地名であるという。橋の手前右側に数軒の古い家があり、その前に細い道が川まで残っている。短い区間だがこれが旧道である。このあたりの千曲川は小諸から遠望するそれとは違って水量が少なく、河原には草が茂り美しい景観とは言えない。しかし昔はかなりの荒れ川で道中の難所でもあったようだ。船渡しの時が多かったが、橋が架けられた時もあり、壬戌紀行には「筑摩川ながる、河原ひろし、大橋小橋をわたりゆく」とある。その橋はしばしば出水で流され、川留めをしたこともあったようだ。その橋の復旧のため宿場は勿論周辺の村々もその負担に苦しんだ。
 塩名田宿は中津橋を渡った対岸からだが、昔の道が河原から現在の橋のたもとまで100mほどだが細い道が残っている。橋を渡ってすぐ左に下りて行く道がそれである。細い道の両側に十数戸の家がある。橋とその道の間にあるのが道中記などで紹介されている「滝不動」の跡である。河原には昔繰り船をつないだという「舟つなぎ石」が見える。元の道に戻る。道の左側に元本陣の家がある。内部は改造されているが、元の建物が残っている。塩名田の宿場はあまり繁盛していた所ではなかったらしく、当時の道中記には「駅舎わびしき所」で「宿あしし」と記されている。現在の国道沿いの町並は車の往来ばかりはげしく、古い建物も殆どなく見るべきものは残って居ない。
 町そのものは小さいのですぐはずれ、右折する旧道をたどる。ここからの旧道はのんびりした畑の中の田舎道で、車は来ないし、時々カッコーが鳴く。散策の道としては絶好である。しばらく歩いて行くうち、左手小川を渡った所に茂みが見えて来る。そこに「駒形神社」がある。古社で本殿の祭神は騎乗の男女二神なので、牧に関連した神社だろうと推定されている。「木曾路名所図会」には、「ここの民何某といふ者、元禄の年頃駒の形ある石を夢に見し事ひと夜ふた夜に及ぶ。その頃大石畑といふ地より駒の形つきたる石、地より掘り出だしたり。人々これに感じて年々花見月の中の七日をもって祭る。今は社を建てて駒形明神と崇め祭るとなり。」と述べているが、本殿の古さから見て元禄の頃というのは話が合わない。
 鞘堂におうわれた本殿は文明十八年(1486)の建築と伝えられ、一間社流れ造り栃葺き、重要文化財に指定され昭和44年(1969)には国費で大修理が行われた。
 そこを出て行くと右手畑の中に点々と小山、塚のようなものが散在する。狂歌師で名高い蜀山人、大田南畝こと幕府の役人、大田直次郎は幕命により大坂からの帰途、ここを享和2年(1802)に通っているが、「すべて田の中ところどころに塚のごときものあり、ここを平塚原村といふ。立場なり。」と記している。印象が深かったものと思われる。そのくらい小山、塚のようなものが多いのである。説明板も表示もないのと、史料で確認していないので断定はできないが、このあたりの塚原、平塚などという地名、また言い伝えなどから、いつ頃のものか不明だが古い塚であることであることは確かなようだ。恐らく古くから牧があり豪族が住んで居たからその墓ではなかろうか。その塚の一つに荏山稲荷があった。社の前に芭蕉の句碑がある。街道を歩いて一番多かったのはこの芭蕉句碑と明治天皇の記念碑である。後者は行在所跡、小休止所跡などだが、大体において宿場、合の宿、或は峠上などの要点に、前者は寺社の境内やこういう塚の前のような所に建てられて居ることが多い。
 駒形神社からこうして1時間半も歩くと岩村田の市街に着く。その手前にあるのが「相生の松」である。どの道中記にも載って居るので有名だったのだろうが、今は何代目になるのか小さくみすぼらしい。そのかたはらに、文化年中(1804〜18)の碑があり「其むかし業平あそんの尋ねけんおとこ女の松の千とせを」の歌が彫られて居る。そして小海線の踏み切りを渡る手前にあるのが熊野社、その奥に八幡社がある。踏み切りを渡って少し行くと十字路がある。旧中山道は左折する。右折するのは佐久甲州街道で、南下して韮崎で甲州街道・国道20号線に合する。この通りは拡幅され現在佐久市のメインストリートになって居る。左折して旧中山道をたどる前に、ここで見ておきたいものがある。
 岩村田城址と光苔自生地そして鼻顔(はなづら)稲荷である。
 岩村田城址は、今来た道を十字路で曲がらずに真っすぐに行き、途中で右折、曲がりくねった道の先、中学校前に小さな城跡がある。この地は中世八条院領大井庄の中心地で、信濃国守護小笠原長清の七男朝光がこの大井庄に入り、大井氏を称し鎌倉時代及び室町時代に勢力を張った。その館の跡は別にある。戦国時代は村上氏、そして武田氏の支配下になる。江戸時代になり、始め小諸藩領そして幕領となり、元禄16年(1703)内藤氏が入封する。1万5千石の小藩ではあったが、町としては交通商業の中心として栄えた。
 光苔自生地はそこから細い坂道を下って河原敷きに出る。少し戻った崖の洞穴の中に自生して居る。囲いがあって中へは入れないが、中を覗くと群生した苔がエメナルドのように光って居る。梅雨時が一番いいということだが、私の行ったのは6月、ちょうどいい時期であった。植物の知識が乏しい私には詳しい説明はできないが非常に珍しいものだそうである。
 そこから川沿いに歩く。500mくらい土手の道を行くと右手の対岸に赤い鳥居と赤い社殿が丘の上に見えて来る。それを目当てに行くと、さきほど通った広い道に出る。すぐ橋がある。鼻顔橋と言う。鼻顔というのは地名である。養蚕、商業などの神として古くから信仰を集めて来た。立派な社殿と御姿殿がある。この神社の建物は崖の中腹から赤い柱が何本も並び、京都の清水の舞台のように社殿を支えている「懸け造り」が特長である。全国に信者があり、日本五大稲荷の一つだという。ちなみに列挙してみると、山城・京都の伏見稲荷を筆頭に、三河(愛知県)の豊川稲荷、肥前(佐賀県)の祐徳稲荷、吉備(岡山県)の高松稲荷をいうとしている。なお付言すれば、稲荷社は宇迦之御魂神(うかのみたまかみ)を祭神とするので神道系のようだが、仏教の荼吉尼天(だきにてん)を祭るものがある。前者の代表は伏見稲荷であり、後者の代表は豊川稲荷である。ここは伏見稲荷の系統である。
 橋を渡り広い道を十字路まで戻って右折、再び旧中山道をたどることになる。ここは城下町であると同時に宿場町であった。本陣、脇本陣はおかれず旅籠は8軒しかなかったので宿泊地としてよりも、むしろ米穀などの集散地として栄えた。その面影はあまりない。旧中山道であった大通りから少し入ったところにあるのが西念寺、弘治元年(1555)武田信玄の開基、本堂脇には賎ガ岳七本槍で知られた仙石権兵衛秀久と弟五郎の墓があり、門の向い側には領主内藤美濃守正国の墓がある。 
 大通りに戻り少し行ったところにあるのが竜雲寺で山門がいい。「東山禅窟」とある。大田南畝の壬戌紀行にも「右に一禅寺あり。門に東山禅窟といふ額をかかぐ。」とある所である。天正元年(1573)武田信玄が信濃国伊奈郡駒場で病没したとき遺骨の一部をここに埋めたと伝えられて居る。昭和6年墓地を発掘した時に出土した袈裟輪の銘文から信玄の遺骨であることが確認された。供養塔がある。山門には武田菱の紋があり、墓地には信玄の部将原大隅守の墓などがある。気になったのは、この寺に「夜間猛犬を放し飼いにしています。無断立ち入りは危険です」の張紙があったことである。こんな張紙をする寺というのは極めて珍しい。岩村田というところはよほど治安が悪いということなのか。
 再び広い道に戻る。すぐに三差路があり上田へ行く道が分かれる。そのそばに住吉神社がある。道路拡張で境内が狭くなりしかも荒れたようだ。ここから小田井まで約2kmは広い道で車がわりと多い。このあたり金井が原で、「皎月原」(こうげつがはら)というゆかしい名がある。途中道から少しはずれて「うな沢一里塚」が残って居る。立派な塚で、道よりはずれて居るのは、江戸初期、街道がそこを通っており、その後今のルートに変わり一里塚だけが元の位置に残されたことによるものである。このような例は他にもあり、この先御代田の一里塚も同じ例である。
 この皎月原には伝説が残って居る。
用命天皇元年(586)に、「皎月」という官女が勅勘をうけて佐久郡平尾に流された。彼女は白馬を愛し、小田井のこの地に来て白馬を乗り回していた。この白馬は実は天の龍馬で、皎月はある日この白馬とともに空をとび平尾の吾妻山の上で「吾は白山大権現なり」と称して隠れてしまったという。この皎月が輪乗りをした跡は「皎月の輪」といって草が生えないという。「木曽路名所図会」に「右に明神の馬に乗玉ふ(のりたまう)馬場とて、芝に輪騎(わのり)の跡あり。左に明神の杜有(もりあり)」とあるのがそれである。
 この途中、高速道路の建設現場がある。関越自動車道から分岐して長野に至るルートで、私が通った時には、そこに古代遺跡が発見され発掘調査中であった。
 小田井宿はもとは一つの宿場町であったが、どういう経過からか行政的には「下宿」は佐久市、「本宿」、「荒町」は御代田町に属して居る。道は狭く車がやっとすれちがえる程度だが、そんな道にも車は容赦なくやって来る。それでも右側にきれいな水が流れ、古い町並が続き風情としては仲々いいものである。木曽名所図会に「此駅の中に溝ありて、流清し。」とある。かってはこの道の真ん中に水が流れていたもので、大田南畝の壬戌紀行には「小田井の駅にいれば一重の桃花さかりなり。駅中に用水あり(左右の道をさかへてながるるなり。)」と記している。
 ここには小田井宿問屋跡、本陣跡など、古い建物がかなり残って居る。この宿は別名「姫の宿」ともよばれ、公家の姫や大名の奥方などが泊まったため、その名を残す。宿場町としては旅籠は少なく、本陣1、脇本陣1、旅籠わずかに5軒であった。前記の木曽名所図会に「駅内二町ばかり。多く農家にして旅舎少なし。」とあり、寂れた様が想像できる。地元では宿場活性化のためしばしば飯盛り女などを置くことを企て運動をしたが、隣の追分宿などの反対や、支配の代官、道中奉行の方針で置くことができなかった。そのため追分、沓掛などと違い地味な宿場となり、追分や沓掛の喧噪を避けた女性客が多くここを利用したという。
 小田井の宿をはずれ荒町からは、湯川の支流久保沢川を右に見ながら点々と家のあるやや上り坂の道を行く。ここまで来ればJR信越線の御代田駅もそう遠くない。

☆行程 
八幡→塩名田→岩村田→小田井→御代田   12km,約4時間
岩村田市内見物     約4km,約2時間
   計        16km,約6時間

☆交通  
八幡へは  JR小諸駅または上田駅より千曲バス
塩名田へは  JR小諸駅から 千曲バス、約20分
御代田からは  JR信越線御代田駅利用

☆地図 
国土地理院  2万5千分の1  小諸、御代田

☆参考  
このコースは東京から日帰りも可能である。しかし一泊するなら前回の望月のコースと組み合わせるか、次回の浅間山麓のコースと組み合わせるかする方が よい。前者の場合なら望月泊まり、後者の場合なら追分がいいが、軽井沢周辺 でも泊まる場所はいくらでもある。



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