(一八)和田宿から望月の里へ    和田→長久保→笠取峠→芦田→望月→八幡

 今回のコースはいわゆる東信南部の古くから開拓され、歌や紀行文で都にも知られて居た地方だが、最近の観光ブームに案外荒らされて居ないので、古いただづまいを味わいながら歩くことができる区間が多い。私の場合には下諏訪から一気に和田峠を越え、和田宿を経て大門落合から戻り、次回、大門落合から望月を経て八幡まで行き、その夜は望月で泊まり、翌日、岩村田を経て小田井から御代田まで1泊2日で歩いた。
 和田宿へは和田峠から旧道が整備されたので、歩けると思って居たが、保守状態が悪いので、荒れて居て旧道を全部歩くことはできない。かなりの区間国道を歩かなくてはならない。だがこのあたりは太古、石器時代から黒燿石の産地として知られて来た。和田峠に国道バイパスをつくるに当たり、男女倉遺跡が発見され、発掘調査が行われた。その膨大な発掘品の一部が、和田宿の「黒燿石石器資料館」に収蔵され、展示されて居る。黒燿石を中心とした発掘品のほか、旧石器時代の石器から縄文時代の石器、土器に至る多数のものを見ることができる。このことは前回述べた。
 和田宿へ来るには交通の便がすこぶる悪い。以前は下諏訪から和田を経て上田を結ぶバスルートがあったが、JRになって下諏訪からのバスはなくなった。従ってここに来るためには、上田からJRバスを利用するか、下諏訪からタクシーの利用しかない。また私のように下諏訪から和田峠を越えてすべてを徒歩で来るのは、行程が22km以上もある峠道で、しかもかなりの区間車の疾走する国道を歩かねばならないので、一般には薦められない。
 和田宿は標高825mの山中にある宿場で、京側の下諏訪宿からは峻険な和田峠を越えて22kmに及ぶ距離がある。江戸時代の資料によれば、本陣1、脇本陣2、旅籠28、中町、下町および上町に分かれ、家数126軒、人別男272人、女250人、計522人の規模であった。文久元年(1861)3月大火で、宿の大半百余軒が焼失し、折から皇女和宮の東下があり和田宿に宿泊されることになったので、急遽宿内の建物を復旧することとなった。幕府より900万両を借りて、問屋場、名主宅をはじめ旅籠屋等を建てた。この時建てられた建物が今も残っている。その1つが脇本陣・翠川安俊宅で、御殿部分が残っている。ここは拝観できない。その前に元問屋・長井恒夫宅がある。内部は改造されているが、上段の間、広い中廊下がある。この隣に元庄屋の「本亭」がある。旅館として現在も営業している。連子格子、出桁造りの建物に古い旅館の特色がある。この先に本陣がある。1986年から解体修理が行われ89年に完成した。この建物は前述の文久の大火後復旧したもので、明治以後は役場、農協等に利用されて来た。御殿部分と門は売却されて丸子町に残っている。この内部は拝観できる。またこの前に元旅籠「かわちや」がある。ここも復旧されたもので、古い旅籠の様式をよく残している。現在「歴史の道資料館」として一般の見学に供している。この奥にあるのが前述の「黒耀石石器資料館」である。
 街道から奥に入ると信定寺がある。もと和田城主大井信貞ゆかりの寺である。この先に和田神社がある。もと大宮社といい古い神社である。ここで旧道はおわり、この先自動車の往来の多い国道を歩かねばならない。途中、若宮八幡がある。ここに前述の大井信貞父子の供養塔がある。天文12年(1553)武田信玄に攻略され一族すべて戦死、この地に葬られたという。そばに一里塚跡がある。更に行くと青原で旧道が右に分かれる。二つの橋を渡る。ひとつは依田川、もうひとつは大門川にかかる。広重の「木曾街道六拾九次」の「長久保」は、和田との間の依田川にかかる落合橋を画いて居る。このあたり今でも広重の絵の風景が残って居る。旧道は間もなく国道に合する。大門といい、戦後、長久保村と大門村が合併して長門町となった。ここで道は二つに分かれ、一方を大門道といい、武田信玄が東信を侵略するためにさかんに使ったルートで「中の棒道」と呼んだ。現在は大門峠を越えて白樺湖、蓼科、霧が峰へ行く道であり、茅野に通じて居る。私も車で何回か通ったが、ドライブには空いていて山間のいいコースである。
 大門から国道をしばらく歩き、右に分かれる旧道を行く。長門郵便局あたりから元の長久保宿となり、古い家も何軒か残って居る。街道の右手奥に長安寺がある。ここには経蔵があり、江戸時代末期の建物で、2.5間四方の土蔵造り、中に8角形の輪蔵を収納する。街道に戻ってしばらく歩くとT字路に当たる。真っすぐに行く道が丸子へ行く道、旧中山道は右折する。角に道しるべが半ば土の中に埋まった形で残っている。右折してすぐあるのが釜成屋、もと造酒屋であった。その斜め前の立派な門のある家が、元の本陣だった家である。寛永年間(1624~44)に建てられたものだが、大名の泊まった御殿の間が今も昔のままに残って居るという。
 この通りを竪町といい、T字路までの道を横町という。寛永8年依田川の氾濫により道を付け変えたため、横町は新たにつくられた道に沿って旅籠等が建てられたものである。ここには枡形がない。宿はずれに神社がある。松尾神社で京都の酒造神松尾神社を勧請したものだといわれている。
 この先は国道、いい道でしかも車が少ない。九十九折を登りきった所が笠取峠上。現在、学者村別荘地入り口となっており管理事務所がある。別荘というのは自然の中の広い敷地に造られる小屋というのが私のイメージだが、ここのは都会の新興団地と違わない。ただ日常住んでいないからいつも空き家になって居るというのが大きな違いだ。そのために立派な管理事務所がある。しかしそれがまた環境破壊の大きな原因にもなって居る。
 峠上から10分ほど歩くと松並木が見えてくる。松並木は国道沿いにかなりの間続く。立ち枯れたもの、欠けている所もかなりあるが、松並木としてはかなりのものである。途中から国道は別に平行してバイパスが造られ、旧道が松並木ごとそのまま残された。長野県が力を入れてその保存をして居るようだ。国道部分のものとあわせると、1km以上の長い区間になる。これだけの松並木が残って居る所は中山道では他にはない。東海道にはここより規模は小さいが大磯、舞阪、御油などに松並木がある。
 松並木が終わった所から少し行くと四つ角、ここから芦田宿に入る。ここは昔もたいした宿ではなかったようだ。壬戎紀行には「蘆田の駅も又わびしき所也」とあるが、今でも小さい町並があるだけ。ただ元の本陣「つちや」の立派な門構えの建物が残って居るほか、元の脇本陣も古い門構えと建物の一部が残って居る。
 芦田宿入り口を左折し北500mほど行ったところに「津金寺」がある。大きな寺で、山門(仁王門)は寛政年間(1789~1801)、観音堂は元禄15年(1702)、本堂・阿弥陀堂は元文3年(1738)の建築である。裏山に滋野氏一族の供養塔3基がある。また境内には多数の五輪塔が立っている。
 宿のはづれから畑の中の道を歩く。20分ほど行くと旧道が左へ分かれて行く。旧道に入ってすぐ右側の民家の間の薮の中に「一里塚跡」の説明板があった。ここから間宿(あいのしゅく)茂田井である。古い家並みの中にひときわ目立つ二軒の大きな建物がある。酒造家で大沢酒造と武重酒造である。そのうちの一軒、大沢酒造に入る。酒造博物館とあったのと、休憩したかったためである。酒造りの過程と道具を見せてくれる。(2度目に寄ったらこれらの酒造りの道具類は片付けられて展示されていなかった。)ここは主に大吉野という銘柄で酒を出して居る。江戸時代からの酒造家で茂田井の庄屋をつとめて居た。酒蔵は元禄年間(1688~1704)の建築だという。
 若山牧水の歌碑があるのは隣の武重酒造の前。同じような白壁の塀が続き門に杉の葉を毬形にした酒林が下がって居る。ここの銘柄は御園竹といい、酒造りは慶応以降というが若山牧水が愛飲したと伝えられる。歌碑には

 「白珠の歯にしみとほる秋の夜の 酒は静かに飲むべかりけり」

のほか2首が刻まれて居た。
 この町の南に無量寺がある。建物は明和5年(1768)に再建されたものだという。
 旧道はやがて広い道に合する。別に車の通るルートがあるのか、この広い道はわりと車の往来が少ない。ここから約30分ほど歩くと望月宿の入り口になる。すぐにあるのが大伴神社。石段を上がると古い社殿がある。延宝5年(1677)建築の春日造り、境内には古い道祖神などがある。木曾名所図会には「大伴神社ー望月駅にあり、延喜式、佐久郡三座の内也、今御嶽社と称す。此所生土神とす」とある。宿の中頃にある医院が、元本陣があった所、今はその表示と説明板があるだけ。昔の旅籠「やまとや」が残っているが、重要文化財に指定され解体修理されたものである。古い建物はあまりないが町のただづまいは古い静かな雰囲気である。私は八幡宿まで歩き、戻ってこの望月の旅館の一軒に泊まった。鹿曲川を見下ろし、望月城を対岸に見渡すいい部屋に通された。商人宿のようだが、簡素で清潔、安いわりに感じがよかつた。
 木曾名所図会に「望月の牧ー望月の駅の上の山をいう。今御牧の原という。(中略)むかしは例年勅ありて駒牽あり天皇紫宸殿にましまし信濃の貢馬を叡覧し給ふとぞ。貞観七年(765)に制む。信濃国牧場元八月廿九日にこれを貢ぐ。今十六日(もちのひ)に定む。云くこれにより牧に望月の名あり。むかしは御牧七郷とて此近辺みな御牧ありしといふ。」とあるが、宿の北側一帯は官牧であった。紀貫之の歌に

 「逢坂の関の清水に影見えて 今や牽くらん望月の駒」

とあるが、平安当時東国32牧の筆頭で1年間信濃の貢馬80頭中20頭をこの牧から献上していたという。時期としては律令制より前から馬飼いがいたようで、その後前述のように官牧になり、朝廷の力が衰え官牧の制が廃れてからも、鎌倉室町期の中世まで駿馬の産地としての名が高かった所である。
 ところで、広重の芦田の絵は「笠取峠の松並木」を画いているようだが、私の見たところどうしても松には見えない。杉のようだ。むしろ望月の絵には立派な松並木が画かれて居る。或解説書には、「木曾名所図会に"金山坂上下十三丁"と記されている。広重の図は、その瓜生峠の上りを描いたものである。街道脇に巨大な松並木が続き」云々とあるが、私はそうは思えない。望月から八幡へ行く途中小さな峠を越える。瓜生坂そして金山坂というが、広重の画く立派な松並木はない。昔はそこに松並木があったが、枯れて今はなくなったというわけでもない。また、芦田の絵について、この解説書は「この芦田を出て、笠取峠に向かう上り坂あたりのアカマツの並木は美しく、天然記念物に指定されている。広重描く図は、この笠取峠を取材したものである。」云々とある。現地をみれば明瞭だが、あたりの風景、松並木はこの図とは全く異なるものである。私見をいうと広重は望月の絵には笠取峠の松並木を描き、一方芦田の絵には別のところを描いたのではなかろうか。そう考えればその風景は合うのである。 
 宿はづれで鉤形に曲がり鹿曲川を渡る。(真っすぐに行っても別に橋があり同じ所に出るがそのルートは旧道ではない。)崖の上に弁天堂があり、その下に芭蕉句碑があった。刻まれて居る字がよく読めないので句は不明。坂を上りトンネル手前で左の道を行く。かなりの登り坂だが、そう長くはない。これが前述の瓜生坂。坂の上に百万辺石碑があり、道端に数基立つて居る。そのそばに「望月一里塚」が残って居る。両側に小丘があるが目立たないので表示がなければ見落とす所だった。ここから金山坂を下りる。下りた所が百沢で広い道に合する。このあと八幡まで一部旧道が残って居るが殆どはこの広い道を歩く。どこからどこへ行くのかやたらに車が多い。我慢して歩く。2kmほど歩くと八幡の宿である。ここで見るべきものは、元の本陣の門構えと八幡神社。この神社があるが故に八幡宿の名ができた。貞観元年(859)に御牧の管理をして居た滋野貞秀の創建という。平安時代以降武士の崇敬の厚かった神社で吾妻鏡にも「佐久八幡宮」という記述がある。正面の鳥居をくぐると堂々たる楼門(随身門)があり、天保14年(1843)完成のものという。この奥の社殿の隣に「高良社」とよばれる旧本殿は安永10年から元明3年(1781~83)建立のもので、重要文化財に指定されて居る。気になるのはこの「高良社本殿」とある表示である。祭神は武内宿禰でその神号「高良玉垂命」にちなみ高良社と呼ばれて居るということだ。それとこの八幡社との関係はどうなのか、九州の久留米にある「玉垂高良社」との関連、また「高良」(こうら)とは「高麗」(こうらい〜こうりょ〜こま)と同義で高麗からの渡来人のもたらした神だという説も無視できない。この点、由緒を詳しく調べたものがないので、気付いた点を指摘するに止める。

☆行程 
和田→大門→長久保→笠取峠→芦田→茂田井→望月→八幡   約23km,7時間

☆交通  
和田までは 上田からJRバス、 1日に5本程度 
望月または八幡からは上田行き、小諸行きの私営バスが一日に何本もあるが、終発が早いので要注意

☆地図 
国土地理院  2万5千分の1 和田 春日本郷、丸子、小諸

☆参考  
このコースは東京から日帰りは無理で、泊まるとすれば望月だが、小さい旅館が4軒ほどある。周辺に温泉地があるが、中山道を歩くには交通の便が悪いので、利用は諦めた方がよい。


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