(一六)木曾谷をはなれて塩尻へ    贄川→桜沢→日出塩→本山→洗馬→平出遺跡→塩尻

 木曾の北端というか東の端は、桜沢の境橋である。ここに「是より南 木曾」の碑が立って居る。ここを歩いて通過してみて判ることは、雰囲気がここを境に変わるということだ。自然環境というより、人文環境がなんとなく変わる。自然環境としては、先に越えた鳥居峠が日本海側と太平洋側との分水嶺で、本来そこが境というべきなのだが、江戸時代にここ桜沢が、尾張藩と松本藩の境であったことによるのかもしれない。
 ところで、現在の木曾は長野県の一部であり、江戸時代以前は信濃国に属して居た。度々引用する藤村の小説「夜明け前」の序の章には「東ざかいの桜沢から、西の十曲峠まで木曾十宿はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い渓谷の間に散在していた。」云々とあり、ここでの境ははっきりしているが、古代には木曾地方は美濃国に属して居た。地名としての「木曾」が正史に最初に出ているのは「続日本紀」大宝二年十二月壬寅(702)のところで、「始開美濃国岐蘇山道」(始めて美濃の国に木曾の山道を開く)とある。ついで同書和銅六年(713)に「戊辰。美濃信濃二国之堺。徑道険隘。往還艱難。仍通吉蘇路」(美濃信濃の境が道が険しく往来が危険で困難なので木曾路をつくった)とあり、いずれも木曾は美濃の国に属して居たことがわかる。その後、美濃信濃の国境紛争があり、約170年後の元慶三年(879)裁定文がおり県坂をもってその境となった。この県坂は今の鳥居峠というのが定説である。これからいうと、鳥居峠の北にある奈良井、贄川は信濃だが、その南の藪原以南、福島を含め馬籠までは美濃に属していたわけである。その後、いつの間にか信濃国に編入され、現在に至っている。(この点私は確実な史書でその変更の史実を記しているのを知らない。)興味深いのは江戸時代の幕藩体制では、木曾は信濃国ではあったが、古代に戻り木曾の北の境である桜沢をもって、前述のように、尾張藩と松本藩の境となり明治維新まで続いたことである。今も風土の違いだけでなく何かにつけて違いがあるようだ。この点は電車や車で通過したのでは、肌で感じられないので、この区間を歩くことによってそれが自然に感じられる。だがここへ来るのには交通の便が悪過ぎる。例えばタクシーを呼ぶとしても木曾福島からか、塩尻からかだがどちらも来たがらない。電車だと贄川駅からか、日出塩駅から歩くことになるが、この区間約5km、旧道は殆ど残って居ないので大部分国道を歩かねばならない。何度も指摘して居るように、現在の国道は歩行者があることを、全く考えて居ない設計で作られて居るから、歩くには不適、不快という以上に危険である。この区間を歩こうとする場合はこの点を十分考慮したほうが良い。
 さて前回贄川駅で筆を置いたので、贄川駅から行くとすれば、しばらく国道を歩くことになる。この区間には歩道があるので、車の排気ガスと埃に悩まされるが危険はない。15分程歩くと旧道が左に分かれる。中畑の集落で、諏訪神社のあたり小さい平地になって居る。再び国道に合し、しばらく行くと土留めのコンクリートの側壁の上の斜面に、「一里塚跡」の表示があった。上って見たが何の痕跡もなかった。その先、丘の上に小さな寺がある。鴬着寺で、木曽路図会に「鴬着寺、曹洞宗飛梅山と号す」と紹介されて居る寺である。この寺の下の道が旧道で、片平橋まで短い区間だが残っている。この片平橋の下にはダムがあり、この橋からの眺めはすばらしい。しかしここから国道を歩くことになり、歩道がないので危険を伴う。途中の桜沢には数軒の家がある。その一軒が百瀬家で、もと茶屋本陣であった家である。明治天皇駐輦の碑が立っている。ここから10分くらい歩くと境橋である。前述の尾張藩と松本藩の領界であった。それはすなわち木曽の入り口でもあり出口でもあった。今この橋のたもとに「是より南、木曽路」という石碑が立っている。このことは前に述べた。この石碑はそう古いものではない。ここから更に国道を行くこと20分、旧道が右に分かれる。間もなく日出塩である。
 日出塩はもと立場で、旧道はあるが今は見るべきものは残って居ない。ただ江戸時代の道中案内などを見ると、「木曾路は獣類の皮を商う店多し。別して贄川から本山までの間多し」云々とあり、石置き屋根の店々で、熊の皮を売って居る風景が描かれて居る。また日出塩は西から来て「是より木曾路離れるなり」とあり、逆に東から来れば、ここが木曾路への始まりという見方もあったようだ。
 ここから本山は近い。この区間は大部分旧道を歩くことができる。本山宿はわりと町並が残って居るが、明治の大火で焼失し古い建物はない。元ここに「松本藩番所」があった。その跡が表示されて居る。ここから洗馬まで、旧道は比較的多く残って居る。洗馬の手前で鉄道線路をくぐるが、その手前にある小堂が「言成地蔵」。言(こと)を願えば必ずかなう地蔵だという。このあたり小さいながら渓谷になって居て紅葉がすばらしい。
 さて洗馬宿、大火で古い建物は殆ど焼失してしまった。だが昔の宿場の町並の面影はある。洗馬駅のすぐそばに元本陣があった。屋敷は鉄道用地に提供し、建物は焼けて今は何も残っていない。その手前「明治天皇行在所」碑のある大きな屋敷が元の脇本陣であった。古い建物は残って居ない。少し歩いて左への小路を入る。「おふたの清水」がある。壬戎紀行に「右の方に大田の清水といふありて木曾殿の馬を洗いしより洗馬の名ありとぞ」とある所で崖下を奈良井川が流れて居る。なお「大田の清水」には異説があって、洗馬の追分で善光寺西街道が別れて行くが、その北2.5kmに大田という所がありそこにも大田の清水があるという。
 その追分には「北国往還」という道標が立って居る。この道は松本を経て長野・善光寺に達した。善光寺西街道ともいい江戸時代にはここは重要な分岐点であった。そのため宿場としてもかなり繁栄していたようだ。江戸時代の道中案内にもその様が書かれて居る。 追分の右への道が旧中山道である。少し登り坂を行くと「肱掛松」というものがあり、細川幽斎が肱を掛けて歌をよんだという言い伝えがある。但し松そのものは何代目なのか貧弱である。郵便局があり旧中山道はその先の交差点で国道と交差し細い旧道となってしばらく続くが間もなくその国道に吸収される。国道に吸収された所から1kmほど行った所で交差する道を右折して行く。そこからあとで述べる「平出の一里塚」までは車の往来の多い厭な道だが、坦々とした一本道でとくに説明することもない。そこでこの交差点を真っすぐに行き平出遺跡のあたりを通るルートについて少し紹介したい。
 この道に入ってすぐ踏み切りがある。これを越えると田舎道だが舗装されたいい道である。車の往来が少ないのがよい。この道は江戸時代以前の古道のルートであった可能性がある。床尾、小井戸、平出などという集落があるが、いずれも古いもので、旧中山道が、畑以外に何もない原(桔梗が原という)を突っ切るように通って居るのに比べて、古い趣はこちらの方が優れて居る。小井戸のあたり左に丘が連なり、比叡山といわれて居る。そこにあるのが「比岳当佐神社」という古社である。
 郵便局があった所から30分も歩いたろうか、森の中に「平出考古博物館」が見えて来た。あたり一帯は遺跡公園になって居て、平出遺跡の古墳時代の家屋、高倉の復元の他、古墳も3基ある。平出遺跡はこのあたり一帯に広がり、縄文時代から弥生時代、古墳時代そして奈良、平安時代に至る遺跡、遺物が発掘、発見されて居る。その一部が前記の博物館に展示されて居る。歴史に興味のある人は是非訪れたい所である。
 前に池がある。「平出の泉」という。この池の周りの風情もなかなかよい。池の端の細い道をたどって集落を出ると広い原に出る。桔梗が原といい、昔甲斐の武田信玄が松本の小笠原氏と合戦しこれを敗ったところである。木曾路巡覧記には「原、用心悪敷所也」とあるが、今でも広々した畑地に一本の道・旧中山道が通って居るだけ。塩尻近くには工場などもあるが、昔は家一つない原っぱの一本道でさぞ不用心な所だったと思われる。旧中山道に出る前に「平出遺跡」の住居跡がある。平出遺跡については述べるべきことが多いが割愛する。
 旧中山道に出るとすぐに「平出一里塚」がある。ほぼ完全な形で2基残って居る。「江戸五十五里、京八十五里」の表示があった。その1基に松が生えて居る。この松を「平出の乳松」といいこの松葉を煎じて飲めば乳の出がよくなるという言い伝えがあった。この先は大きな工場の塀が続く。やがて中央線のガードをくぐると前方に社叢が見えて来る。元柴宮、戦後若宮などを合祠して大門神社という。ここから銅鐸が発掘され前述の平出考古博物館に展示されて居る。長野県を含む東国で銅鐸が発掘された例は珍しいそうである。その手前に小堂があり耳塚という。昔耳の悪い人が祈ると効能があったとも、桔梗が原の合戦に関係があるともいう。「耳塚」というのは各地にあるが、その由来は合戦にかかわることが多い。というのは戦勝のあと将兵の戦功を賞する時の基準の一つに強敵を何人討ったかということがあった。その証拠として首級をあらためたが、多い場合には耳をそいで提出しこれにかえた。その霊をともらうため塚を作ったとする言い伝えが多いのである。 間もなく五差路に当たる。左の広い道は塩尻(新駅)へ、次に左へ行く道は松本道、国道20号線で松本でさきに洗馬の追分で別れた善光寺西街道に合する。このあたりを大門という。真っすぐ行く道が旧中山道である。左の広い道を行くこと10分で塩尻駅に出る。

☆行程 
贄川→桜沢→日出塩    約5km  1時間半
日出塩→本山→洗馬    5.5km  約1時間半
洗馬→追分→平出→大門→塩尻駅  約8km  2時間半

☆交通 
贄川または日出塩まで  東京からは新宿発特急で来て塩尻で普通電車に乗り換え、贄川駅または日出塩駅下車
塩尻から  特急で新宿まで2時間半

☆地図 
国土地理院 2万5千分の1 贄川、北小野、塩尻

☆参考 
強行すれば東京から日帰りは可能だが、次回述べる塩尻峠、下諏訪を組み合わせて1泊2日の日程で歩いた方がよい。


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