(一四)木曾谷を行く(その二)    須原…寝覚めの床→上松→桟→福島→宮ノ越→巴淵

 今回は寝覚めの床を出発点にする。私の場合は中山道を連続的に歩くことを目的にしたので、須原から寝覚めを経て上松まで歩いたが、須原から寝覚めまでは旧道が殆ど残ってをらず、何度も指摘したように、国道を歩くのは、不快であるとともに危険でもある。従って一般にこの区間を歩くのは薦められない。
 寝覚めの床は観光地として有名なので、どのガイドブックにも載って居るから説明の要もないと思うが、ポイントを絞って述べる。上松からここまではわりとバスの便がいい。バス停の近くに臨川寺がある。入場料100円支払って中に入る。私はここへは2度目だが、30年前に来た時は小さなお堂が幾つかあっただけで、そこから眺望を楽しんだ後、川原への石段を下りて行ったような記憶があるのだが、観光ブームを当て込んだのかやたらに寺社や施設が多い。また浦島太郎の伝説にちなむお堂などもある。しかし臨川寺の展望台から見る景色はやはりすばらしい。またここから下りる道はかなり整備され危険がないようになって居る。この維持費に使われて居るなら入場料をとるのは当然かもしれない。河原に出て岩間から木曾川の流れを見るのもまたよい。上流にダムがいくつもできたので、水量は少ないし奔流と言うには程遠い。江戸時代の紀行文に記して居る光景とは大分違うだろう。
 さて寝覚めの床を見たら、真っすぐに上がる道を行く。つきあたりが旧中山道である。角に「越前屋」がある。続膝栗毛の弥次喜多は「寝覚の建場にいたる。此ところ蕎麦切の名物なり。中にも越前屋といふに娘のあるを見て"めいぶつのそばきりよりも旅人は むすめに鼻毛のばしやすらむ"」としゃれて居るが、ここにはその昔の建物が残って居る。営業は国道沿いの臨川寺のそばでやって居る。広重の「木曾街道六十九次」には何故かこの名所が画かれて居ない。手前にある「小野の滝」をとりあげて居る。街道筋にあるいい滝だが、中央線の鉄橋にさえぎられて景観が壊されて居る。そこまでは旧道もあり歩くのもよい。越前屋の角を右折して往復3km歩行1時間くらい。滝の少し手前まで旧道が続く。なお須原からは前述のように、一部旧道区間が残って居るが自動車の疾走する国道を1時間くらい歩かねばならない。この区間の説明は省略する。
 さて、その越前屋の角から旧道を歩く。しばらくは古い家並が続く。もと寝覚の立場があった跡である。そして見帰の集落を過ぎやや上りの道を行くと小学校がある。その手前にあるのが諏訪神社、ついで元尾張藩上松材木役所があったところを通るが、今は何も残って居ない。その角に「駒嶽道」という石標があった。木曾駒への入り口である。やがて上松の町に入る。本陣、脇本陣とも何も残っていない。一里塚跡はその表示があるだけ。右へ少し入った所に玉林院がある。木曾義元の二子玉林が天正10年(1582)に創建したものだというが、火災にあい山門と本尊を残すだけ。また町は道路整備や建て替えで昔の面影を見いだすのは難しいようだ。
 十王橋を渡りすぐ左へ行き木曾川を鬼淵橋で越えて対岸に出る。最近まで上松駅からの森林鉄道がこの橋を渡って居たという。その線路敷きが今道路の一部になって居る。始めにのべたように、上松から福島までの旧中山道は大部分国道19号線に吸収され、或は消滅してしまっているのでそこを歩くのを諦める。私自身はこの区間、国道を歩いていて、すぐ脇をかなりのスピードで追い越して行った大型トラックの、その風圧で被って居た帽子が吹き飛んだ。深い木曾谷の下へひらひらと舞い落ちて行く帽子を見ながら、惜しいというより肝をつぶしてしばし立ち尽くして居たものである。
 対岸の道は細い田舎道だが歩きよい。深い木曾谷を歩いて居るという実感がわく。また古道であった可能性もある。木曽路は水害、崖崩れのためしばしば不通になり、道が付け替えられて来た。対岸に道が造られたこともあるのである。木賊、南上条を過ぎる所、路傍に石仏群があつた。上条公民館の先に大きな工場がある。そこを下りて行くと桟(きざはし)に着く。ここの地名にもなって居る。「桟」は橋ではなく石組みである。現在は国道の下の基礎構造にその一部が組み込まれて居る。対岸から見るとその構造がよく解る。ここには歌碑やら句碑やら、その他の石碑がたくさんあるが、その一つ

  「桟や命をからむ 蔦かづら  はせを 」

芭蕉が貞享5年(1688)にここを通った時の句である。
 対岸の道はここからもまだ行けないことはないが、大きく遠回りになるので、橋を渡り国道を行かざるをえない。前述したように車の危険があるのであまりおすすめできない。沓掛の所に少し旧道が残って居て鉄道線路脇に沓掛一里塚の跡がある。やがて王滝川のダムが見えて来る。このあたり神戸、T字路があり左折して元橋で木曾川を渡つて行く道が御嶽山への王滝道である。しばらく行くと二股になって居る。右への道が福島バイパスである。左への道が車が少ないので、そちらを歩くことになるが、実はこれも旧国道であって旧中山道ではない。山や線路などで、途切れ途切れだが、旧道は別に通って居る。残念ながら連続していないので歩くわけにはいかない。塩淵の所から旧道が残って居るので、たよりない道だがたどることはできる。たよりないと言う意味は細い狭いということもあるが、人家などで途切れている箇所が何カ所もあるということでもある。
 民家の前に「福島一里塚跡」という石碑があった。やがて福島の市街に入る。崖上の木曾福島駅を見上げながら過ぎ、ここでも鈎の手に曲がる宿場の町並を行くことになる。本陣跡は木曾福島町役場になり、昔の旅籠だった岩屋旅館は現在も営業して居るが、建て替えられ昔の建物ではない。このあたりもと宿場の中心だった所だが、昭和2年の大火で全焼したため古い建物は何も残っていない。この先右手を登った所にあるのが久昌院、立派な山門がある。そこから裏道伝いに行くと高瀬家がある。代官山村氏の家臣で代々関所番を務めた。また藤村の姉の嫁ぎ先で江戸時代の土蔵と庭が残っており、古い文書などを展示して居る。この隣が「福島関所跡」で、現在復元され公園になって居る。この先旧道は少し続くが国道に合する。
 福島で見るべきものは川の右岸に多い。関所跡の前の関所橋を渡り、少し戻って小学校の隣にある山村代官屋敷跡を見る。山村代官の下屋敷があった所である。現在の建物は享保8年(1723)再建になるもの。泉水庭園が見事である。入り口に地方役所跡がある。現在の小学校の敷地一帯も屋敷の一部だつたというからかなり広壮な屋敷であつたことが判る。小学校の東にある長福寺には3体の石仏があり、文政5年(1822)につくられた傑作とされて居る。この寺の隣にあるのが、興禅寺、大きな寺で山門、大悲殿、そして庭園、枯山水の看雲庭がすばらしい。奥に木曾義仲の墓が眠って居る。
 ここから旧道に戻るには、さきに渡って来た関所橋を渡って行くことになるが、ここでも右岸を歩くことにしたい。旧中山道はここでも大部分国道に吸収されてしまって居るからである。裏道を少し行くとダムがある。黒川渡ダムといい、人造湖があり、桜、紅葉などの木々も茂りなかなかの景観である。橋を渡った所に二股、左が高山への道である。ここに「黒川裏番所」があった。前に通った落合の手前の「与板番所」と同様尾州藩がおいたもので、木材搬出の取り締まりをして居た。木曾木材が尾州藩にとっていかに重要であったかが判る。明治になり、すべて御用林、国有林に引き継がれ、木曾の経済を支えて来た林業の基盤となった。現在は木材不況と言われて居るが、江戸時代からの長い間の森林培養政策の遺産だとも言えるのである。戦後間もない頃、共産党の徳田球一の演説を聞いたことがある。その中に「人民の住宅困窮を救うため、ただちに木曾の国有林を解放し、すべての木を切り払って住宅を建てるべきである」という趣旨のことを言って居た。森林は一度切り払ったら元へは戻らない。それに水害や山崩れを防ぐすべがない。少年の私でもひどい暴論を言うと思ったものだ。しかし今の木曾の美林はどれだけ保護され培養されい居るだろうか。短期の経済性ばかりが追及されて荒廃することがないかどうか心配である。 この右岸の道は静かで歩きよい。所々舗装されて居ない所があるが車が通れるくらいの広さはある。上野というあたりに、道の横の空き地に石仏群があった。右岸を歩くこと30分、道は二股になる。真っすぐ行くと山の中に入って行くので、右折して木曾川を渡る。このあたりの木曾川は大河という感がない。川幅が狭いし水量も少ない。鉄道線路を越え少し行った所にあるのが「手習天神」。壬戎紀行に「天満宮あり、石段多し、これ木曾義仲を祭れるなり」とあるもの。
 間もなく国道と合し正沢川にかかる七笑橋を渡る。そしてすぐ左折し旧道を行く。田んぼの中の道を行くうち大きな木標があった。「中山道東西中間之地」と表示され、京へ六十七里二十八丁とある。約271kmである。中山道は江戸日本橋から京三条まで135里24丁8間、約533kmとされて居るがこれから逆算するとやや合わない。
 やがて原野の町並、そのはずれに、「林昌寺」がある。国道沿いにあるなかなかいい寺である。ここには木曾義仲を支えた中原義遠の墓がある。こういう谷合から義仲を戴き、あれだけの大軍を率いて、時の権力平家を各地に破り、京を押えて備前の国まで遠征した。この力はどこから出たものか。相当の財力と政治力があった人物と考えられる。
 原野の集落を出て、鉄道線路を渡り、2kmくらい行くと宮ノ越の町並に出る。前述したように木曾十一宿は馬篭、妻篭、三留野、野尻を下四宿、須原、上松、福島を中三宿、宮ノ越、薮原、奈良井、贄川を上四宿と言われて来たが、その中でも中心的な宿場は福島で、他はみな貧弱な宿であった。この宮ノ越も宿としてはたいした所ではなかつたようで、江戸時代の道中記に「宿悪敷山中道也」とある。今も閑散として居る。本陣跡も標識だけで何も残って居ない。
 ここで見るべきものは木曾義仲ゆかりの寺社と言い伝えの場所である。まず、徳音寺、宮ノ越の町並の対岸にある。義仲が母小枝御前のために建てたものと言われ、後、義仲の位牌をおさめた。
 旗揚げ八幡という社が畠の中にあり、義仲がここで元服して旗揚げをした所であると伝えられる。「旗揚げ欅」という大欅があり真ん中で折れて居る。
 少し山側へ行き国道沿いにあるのが南宮大社、金山彦を祀る。社叢も茂り境内も広い。この先5分ほど歩くと「巴が淵」がある。巴御前の屋敷があった所と伝えられ、隠れた景勝の地である。木曾川に両側の山が迫り、その木々の紅葉がすばらしい。
 旧道は前述の巴が淵で終わる。その先は薮原の手前まで国道に吸収され消滅して居る。この区間の国道を歩くことは薦められない。

☆行程 
寝覚めの床→上松→桟→福島→宮ノ越     約22km,約6時間
宮ノ越から巴が淵  往復 約3km, 約1時間

☆地図 
国土地理院 2万5千分の1  上松、木曾福島、宮ノ越

☆参考 
木曾谷を歩くには部分的にはいい道が残って居る。だが連続して居ない。このコースの始めと終わりの、寝覚めの床と、巴が淵は景勝の地だが、全部を見物しながら歩くとすれば、7時間から8時間はかかる。途中の国道区間をタクシーを利用するとすれば能率がいいが、タクシーは福島、上松以外からは呼べないので注意を要する。


 

目次


[HOME][旧東海道の面影をたどる][旧中山道の旧道をたどる][中世を歩く][中世の道]
[身近な古道][地名と古道][「歴史と道」の探索][文献資料][出版物][リンク]