(一二)藤村ゆかりの木曾の宿場町    馬籠宿→馬籠峠→妻籠宿→南木曾(三留野)

 馬籠は今や観光ルートの一つになった。ここは各種の観光ガイドブックに記載されて居るので、私の説明はポイントだけにしたい。真っすぐ行くのが旧道だが、登り坂の石畳道、というより石畳道に似せたコンクリートの道、その両側に観光用の古い形をした建物が並ぶ。正に観光用の見せる宿場町の形をした施設になって居る。これから行く妻籠宿のようにきちんとした計画で復元していないだけに始末が悪い。それでも見ておきたいものは幾つかある。簡単にそれらについて紹介しよう。

a.清水屋資料館、もと宿役人の原家で藤村の書いた書簡や宿の古文書を展示している。
b.藤村記念館、もと本陣跡、島崎家で、道に面して板塀と冠木門が 復元されて居る。土蔵には藤村の遺品や原稿、作品などが展示されて居る。
c.馬籠宿記念館、もと脇本陣跡、蜂谷家こと八幡屋で「夜明前」では桝田屋の名で登場する。昔の面影はないが、古文書、民具などを展示して居る。

時間があれば永昌寺も見ておきたい。先の藤村記念館の横の細い道200mほど入った所にある。「夜明前」では万福寺となって居るが、島崎家の菩提寺で境内も広い。
 宿のはずれに高札場も復元されて居る。私は馬籠宿に宿泊することを予定して居たが、あまりにも騒々しいので敬遠して先へ急いだ。細い山道を登り、下った所に舗装道路があり、塩沢橋を渡ると岩田で数戸の家がある。2軒ある民宿のうちの1軒に宿泊した。古い民家で岩田本家という。200年前の建物で土間、囲炉裏があり、そのうち畳の間4つを宿泊客に提供して居る。奥にもまだ部屋はあるが今は使って居ないという。おばさんが一人できりもりして居る。素朴でなかなかいい一夜を過ごすことができた。翌朝、蛙と鳥の声で目が覚めた。山里の田圃、小川の畦を朝のいい空気をいっぱいに吸いつつ少し散歩。 朝食後、すぐ出発。できるだけ遠くまで足を延ばしておきたいと思ったからだ。道はやや登り坂の舗装されたいい道、しかも車の往来は殆どない。道端に双体道祖神があった。1組の男女が仲良く手をつないで居る像である。こういう石仏を見る度に心が温まる。愛する夫妻で道行く旅人の安全を願うという趣旨だと思われるからである。
 1kmくらい行くと、小公園があり、十返舎一九の歌碑があった。

 「渋皮のむけし女は見えねども 栗のこはめしここの名物」

とある。この狂歌は続膝栗毛に載っている。
 すぐ先が峠の集落。ここは宝暦3年(1753)以来火災がなく江戸時代の古い民家が何軒も残っている。そういう民家で民宿をしている所が何軒かある。五街道細見独案内(安政2年、1855)では「赤飯が名物」としているが、前出の一九の狂歌では「栗のこはめし」と言って居る。この方がありそうである。今もあるかどうかは知らない。
 この集落をはづれやや上りの道を登りきった所が馬籠峠。これから妻籠宿への長い下り坂の道となる。峠の上に立つとはるか先の木曾の山々を壁に緑の谷間が広がって居る。眺望はすばらしい。何台かの車があり、何人かの人々が来て居た。ここまで馬籠からも妻籠からも自動車の通れる道がある。
 その中に2組のハイカーが居た。その一人に話しかける。妻籠から歩いて登って来たのだと言う。 私が民宿を出たのはちょうど8時、この峠が8時半だから、この間30分、2kmていどだろうか。妻籠からこの峠までの道は長いし、上りもきつい。その人の話しでは前日大阪を発って妻籠に泊り、朝一番6時前に出て来たのだという。下りは2時間もかからなったから私がたどったルートの方が楽なのだが、この日は逆に登って来るハイカーに何組も会った。ガイドブックにそう書いてあるのか、交通の便がよいのか、或は妻籠に泊まることに魅力があるからなのだろうか。
 峠から下る道は細くてかなりきつい。途中やや平坦な所に出る。一石栃(いっこくとち)といいもと茶屋があった。今は無人の一軒の建物があるだけである。その裏手を少し登った所に小堂があり、子安観音という。またここには昔「白木の番所」があった。その一部が復元されて居る。ここで、中年女性の5〜6人のグループに出会った。先の建物のかげで休んでいたら、楽しそうにやって来た。登山靴をはいた完全装備の人、Gパン、軽装の人と装備は様々だが、この道を歩きとおすつもりで来て居る。昨日大阪から来て妻籠に泊まり、できれば今夜は馬籠に泊まって明日帰るという。2泊3日の日程である。馬籠までどのくらいあるかと聞かれたので、峠上まで下りで30分だったから、上りなら1時間、それから馬籠まで40分くらいと答えた。馬籠宿で見るものはたくさんあるかと聞くので、人の好みにもよるが1時間もあれば十分だと答えた。時間が余るわねと言っているので、宿の予約はしてあるのかと聞いたら昨夜はしてきたが今夜は特にして来なかったと言う。それならもう少し先で泊まって、翌日、落合まで林間のいい石畳の道を歩いた方がよい。ずっと下り坂なので今日のコースよりはるかに楽なはずだ。その先、中津川まで歩いた方が帰りの便がよい。中津川まで全部歩いても3時間くらいだ。とすすめた。せっかくのボランティアで整備された落合までの石畳の道を一人でも多くの人に歩いて貰いたい気持ちもあった。どういうガイドブックを見て来たのか、彼女たちは歩くのが好きだと言って居るにも拘らず、いい道を知らないのである。
 彼女たちと別れて、下り坂だったということもあり、自然と足は早くなった。この後、何組かのハイカーに出会ったが、全部に聞いたわけではないが、この日は不思議と関西の人ばかりであった。
途中、大きな椹(さわら)の木があった。周囲5.5mもあり、山の神が下界に降りて来た時、腰をかけるという枝があり、昔から大事にされて来たという。15分も歩くと滝上橋、旧道はここから滝上の細径を通るが、現在通行可能かどうか確認していない。そこから少し行った所から急坂を下る。坂を下る途中でも滝は見えるが、谷底に下りて二つの滝を見る。左側が雌滝、右側が雄滝である。吉川英治の小説で「宮本武蔵」がこの滝に登場する場面がある。
ここから谷間の道を下る。右手に小堂があり、「倉科祖霊社」の石標が立って居る。横に説明板があり、それによると、天正13年(1585)松本城主小笠原貞康が秀吉に財宝を贈るため遣わした倉科七郎左衛門がこの地で盗賊に襲われ殺された。その霊を祀ったものという。この先、かなりの急坂を下りると平地がひらける。広い道に出るが、すぐ左へ曲がり橋を渡った所が「大妻籠」である。ここは卯建のある古い民家が並んで居る。復元したという話しを聞かないから元の町並だと思う。ここは宿場ではなかったはずだが、馬籠よりよほど古いただづまいを残して居る。ところが、ここまで訪れる観光客は少ない。たいていは妻籠宿を見て終わりのようである。ただその古い民家で二階に布団をいっぱい干して居る光景が何軒もあるのを見かけたので、民宿をして居て泊まる客もかなりあるようだ。細径を上った所が神明。今も小社がある。そして蘭(あららぎ)川の橋を渡ると広い道に当たる。国道256線である。右は飯田へ、左は妻籠の先で国道19号線に合する。この国道を横切り田圃の中の細い径を歩く。小さな橋を渡る。右端に大きな道標が立って居る。正面に「中山道西京江五十四里半、東京江七十八里半」、右横に「飯田道 元善光寺旧跡江八里半、長姫石橋中央江八里」と彫られて居る。これが清内路越えで伊奈、飯田への道で、前述の国道256号の旧道である。なおこの道標の建立時期については確認していないが、「東京江」とあることから見ると明治以降のものと思われる。
 ここから妻籠宿で、「古い町並保存」に住民が一体になって努力して居る。ところで、それがまた観光名所となって全国各地から多くの人々が訪れ賑わって住民をうるわせて居る。ここでの名所案内は、各種のガイドブックにあるので詳細はそれに譲るが、概括的にいうと見事に町並保存が成功して居るといえる。
 最初に見る所は、上嵯峨屋、ここのは本格的なものである。外からも自由に見ることができる。それから、林屋、そして生駒屋。このあたりは古い家が維持または復元されて居て、古い独特の雰囲気をもたらしている。ただし、群れをなして騒然と歩き廻る観光客なかりせばである。しかし昔の街道の宿場は別の形で喧噪であったろうから、賑わいが戻ったと考えるべきなのかも知れない。
 「汗かき地蔵」というお堂がある。ここで道が二股に分かれる。左へ行くのが旧道の枡形道で、右へ行くのが新道で砦だった跡を通る。また地蔵堂の脇の石段を上って行くと光徳寺がある。天正11年(1583)の開基、西側に長屋門があり、それに続いて勅使門がある。その内に本堂と庫裏がある。またこの寺には島崎、林両家の墓がある。石垣際に大きな枝垂れ桜があり、樹齢500年といわれて居る。
 さて先の旧中山道をたどると、復元された家が続く。枡形の南にあるのが上丁字屋、いま土産物を売って居るが元は旅籠。新道に合する所に常夜燈があり、その角に堺屋が復元されて居る。この先郵便局の横に、元の本陣の跡がある。藤村の小説「夜明前」に出て来る青山半蔵の妹が嫁いだ先であり、養子に入った島崎広助(藤村の兄)が居た所である。今建物は何も残って居ないが、小公園になっており、門などが復元されて居る。その斜め前がもと林屋、脇本陣で現在郷土資料館になっており内部を見学できる。
 このあたりは下町で、間もなく広い道にぶつかる。その道は南木曾への道路でバスも通って居る。旧道はやや上り坂、「高札場」の跡があり、これも復元されて居る。ついで「口番所」跡、この跡は標識と説明板があるだけだが、ここで妻籠宿は終わる。
 近くに鯉岩がある。木曾路名所図会によると「鯉巖ー妻籠宿の北はづれにあり、形鯉に似たるより名に呼ぶ」とあるが、明治24年濃尾大地震で倒壊し今では単なる大岩があるだけで鯉の形には見えない。ここから先は細い山道になる。観光客も来ないので、時折ハイキングの人に出会うくらいの静かな道になる。15分ほど歩くと「妻籠古城」の入り口があり、説明板が立って居る。それによると、天正10年(1582)木曾義昌が築き山村良勝に守らせた山城で、土塁や空濠が残って居るという。
 間もなく「窪洞茶屋」跡があり、民宿が一軒ある。そのそばにあるのが、「上久保一里塚」。わりと原形をとどめて居る。江戸から78番目である。しばらく行くと橋があり、左へ下りて行く道があるが、右への細い坂道を上る。神明社があり、「かぶと観音堂」がある。堂は小さいが境内はわりと広い。ここに伝説があって、木曾義仲が旗揚げした時この南の妻籠に砦を築き、その鬼門に当たるここに小祠を作り戦勝を祈ったのが始まりだという。ここから少し先に眺望のきく所がある。すぐ下が木曾川の流れ、右に中央線の線路が見え、三留野の町が展開する。そしてずっとさきの木曾の山々と谷合を展望することができる。
 ここからは下り坂を一気に下る。中央線の線路の真上を越え下りきつた所に、もと庄屋、遠藤屋敷の跡がある。今は枝垂れ桜と「園原先生の碑」が立って居るのみ。このあたりは和合で、江戸時代は酒造りの里であった。前記の遠藤家も酒造家であった。その時代の紀行文、壬戎日記にも紹介されて居るが、今は造られて居ない。ここが、ちょうど南木曾の駅裏に当たる。細い道を下りガードをくぐると駅に出る。

☆行程 
馬籠宿→峠→妻籠→和合(三留野)→南木曾駅    19km 約6時間

☆交通 
馬籠へJR中津川駅からバスがあるが 運行回数が少ない。
JR南木曾駅から名古屋へ又は塩尻乗換え新宿へ

☆地図 
国土地理院 2万5千分の1  中津川、妻籠、三留野


 

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