(一一)美濃から木曾へ    大井→坂本→中津川→落合→馬籠

 この区間は一部を除き大体において旧道が残って居る。交通の便もよいので、ハイキングコースとしても好適である。距離も19km,6時間程度で一日行程である。昔の旅人は女性でもここを普通一日で歩いた。男の一日の標準行程は10里、約40km,朝、宿を早立ち、夕方には次の宿泊地に着いているから10時間ほどで歩いて居る。前出の太田南畝は大井から中津川、馬籠、妻籠、三留野を経て一日で野尻まで行って居る。この間実に11里弱、約43kmもある。
 大井の宿は前回述べたように大井橋から東側である。昔の宿場は防衛上、わざわざ町筋を鈎の手に曲げて居る。従って旧道は左折、右折を何回も繰り返す。この町並で見ておくものは、市神神社、本陣跡などである。最近恵那市で表示、説明板を主要の場所に立てるなど整備が行われたので、見て歩くには非常に便がいい。
 阿木川にかかる大井橋を渡ると、角に説明板があり、これを見てそこを左折、しばらく歩くと「尾州藩白木番所跡」がある。その先が市神神社である。市神はたいていの宿場や市のあつた町に祠られて居る。東京近くでいえば、浦和、草加等にもあった。市つまり交易、商品売買がその神社の前で行われたか、または、その市が殷賑することを願って建てられて居たものである。ここの市神は建物は古くはないが、境内はわりと広く昔のままのようだ。ここを鉤型に曲がる。途中元大井村庄屋古屋家がある。この建物は古い。すぐ丁字路にぶつかる。さきの大井橋から真っすぐに来る道である。この角にある「いち川」旅館は昔からの旅籠だという。ここを左折する。この道には何軒か昔の建物、或はその跡が残って居る。宿下問屋場跡、宿役人林家、大井村庄屋古屋家など、恵那市の説明板でそれを確認することができる。本陣跡は立派な門構えの家で、鈎の手に曲がる角にある。現在子孫が住んでおられるが、立派な門と塀が残されて居る。元の本陣建物は昭和22年に焼失した。
 高札場跡の先が宿はづれで広い道に出るが、その角にあるのが「長国寺」、前回述べた西行終焉の地と伝えられる寺である。少し町からはずれるが、1kmほど南、中学校の先にある武並神社にも参つておきたい。社叢も茂り、社殿も古く立派ないいものである。後ろに国道バイパスが出来たのでやや喧噪になっているが、静かないい雰囲気は残って居る。延喜式の古社でこの地の産土神を祀る。承久2年(1220)近くの茄子川に拠城した新田四郎左衞門尉義清その子淡路守義綱の再興にかかる。社殿は永禄年間(1558~71)の再建、寛永年間(1624~44)に修理したという棟札が残っており、桧皮葺、入母屋造で県の文化財になつて居る。
 旧道に戻って明智線のガードをくぐった先が正善寺、左折する広い道は恵那峡へ通ずる。木曾川を手前の大井ダムでせき止め人造湖が出来て居るが、景観もよく観光地として宣伝されて居る。
 この先の旧道は山道というより田舎道である。しかし、かなりの起伏はある。ちょうど時期だったのか、各所で土日農業の男女が機械を使って田植えをしている光景がいくつも見られた。土日農業と言ったが、ふだんの日は勤めに出ていて休みの日に田畑をやるという農家が殆どだそうである。
 岡瀬沢の集落を越えて橋を二つ渡る。二つ目の橋から中津川市に入る。その境に石標があり、「中山道」と刻んであった。点々と家がある道を歩いて行くうち、茄子川、もと坂本の立場があった所を通る。そこを右折していく道の角に大きな道標があった。「秋葉山道」とあり、常夜燈2基がある。坂本橋を渡って坂を登る。30分くらい歩くと新道に合する。バイパスが別のルートにできて旧国道になったが、それでも車の往来はかなりある。このあたりも坂本で千旦林(せんだばやし)という。新道を歩いて5分くらい、左に常夜燈があり、坂本神社の参道がある。この参道を中央線が横断しているので、社殿へは踏み切りを渡って行かなければならない。式内社で由緒は古い。
 そこから5〜6分行った所が中央高速道路の中津川ICである。そのために旧道は壊され脇の道を通り、新道を信号の所で渡って、旧道を探して入って行くことになる。このあたりややこしいが、迷うことはない。旧道はここから上り下りを繰り返しながら中津川の町に入って行く。
 途中、小さな塚があり、横に「明治天皇小休止所跡」云々の碑がある。この塚が「中津一里塚」の跡である。その道端に珍しい道祖神を見付けた。「双頭一身道祖神」で男女の2人の頭と顔、そして体は抱き合って一つになって居る。道祖神としては極めて珍しい形のものである。
 すぐ曲がりくねつた坂を下る。そして上宿橋を渡って新道との交差点をこえると中津川の市街である。中津川宿は中津川橋を渡り、鈎の手に曲がったあたりからである。現在本町1〜4丁目あたり、ビルも建ち道路も拡幅され、昔の面影は殆ど無い。今、電話局のあるあたりが元の脇本陣だった所だが、表示があるだけ。その隣に古い建物があるが、元中津川村庄屋であった家。また前の薬局が元の本陣。ここに「郷倉」が残って居て外からも見える。昔からのものといえばこれらの建物だけかもしれない。「郷倉」というのは、飢饉の時に備えて米麦などの穀物を貯蔵していた倉で、宿の本陣または村の庄屋が管理して居た。各所に置かれたが、現在、中山道、東海道を通じて残って居るのはここだけだという。
 四ツ目橋を渡ると新町で、中津川市が最近街路整備を行ったので景観が一新した。昔の宿場町の一部を再現した「往来庭」がつくられている。
 宿はづれに成田不動の小さなお堂がある。その前が高札場跡で、最近復元された。この先が崖になっていてかなりの急坂を登り、国道を横切って斜めに坂を登って行く。左手が中津川高校である。
 なお寄り道になるが、この国道を右へ行き脇道にそれ東小学校の前の小路を山側に入ったところに「東円寺」がある。「うしろ向き薬師」と呼ばれる薬師如来像を祀る。この像は重要文化財に指定されて居る。また左へ行けば、約10分ほど歩くと鉄道線路の先の丘の上に「中川神社」がある。延喜式の古社でこのあたりの産土神である。
 さて旧道の坂道を登りきった右手の森の中に芭蕉句碑がある。これは元中山道沿いにあったが道路整備で移設したものである。そして旭ケ丘公園のはじに経王書写塔、三井寺観音を模した石仏がある。またその先の民家の間に「尾州藩白木改番所」跡がある。ここの説明板によれば、白木というのは桧などの古木の皮をけづった木地のままの木材で、長さ1m半くらいに割り、屋根板、天井板、桶板などに利用した。村人達はこれらと、桧細工で生計を立てて居たが、尾張藩は領外への搬出を厳しく取り締まった。そのための番所が「白木番所」で、大井にもあったが、この先尾張藩領であった美濃、木曾の各地に置かれ、その跡がある。
 国道バイパスの広い道を越え、坂道を下り地蔵堂橋という小さな橋を渡る。このあたりは子野(この)という集落で、以前地蔵堂があったのでこの名になった。その跡地にいくつかの庚申碑、石仏がまとまって置かれて居る。それぞれのいわれを持った石碑、石仏が木の下に肩を寄せ合うように立って居るのを見ながら、しばしの休息をとった。
 ここから坂道を少し行くと「覚明社」がある。御嶽信仰にかかわる行者を祀つた社で、今は取り残されたように立って居る。この先、木曾谷にも野尻に「覚明社」があり、また鳥居峠上にも覚明の碑が立って居た。御嶽山にこもった覚明という行者が山を下りてこのあたりの村々に御嶽信仰を弘めて行った名残だと思われる。
 しばらく林の中の道を行くこと約1km、突然視界が開ける。眼下に木曾川、それに架かる赤い橋、そして落合と付近の村々。眺望はすばらしい。ここから落合まではずっと下り坂である。与板という所で新国道と合う。ここには「与板番所」があり、尾州藩が木曾木材の無断持ち出しを監視して居たという。今は何も残って居ない。このあたりの旧道は入り組んで居て分かりづらい。一旦国道をくぐり抜けて向う側に出、再び国道をこえて畠の中の細径に入る。途中途切れて居るので、別の道へ迂回しなくてはならない。
 落合には古い町並が少し残って居る。旧道を来て丁字路にぶつかった所の左に小公園があり、横に道標が立って居る。「右中山道中津町一里」と刻まれて居る。近くに「明治天皇落合御小休所」という石碑が立って居る立派な門構えの家があるが、もと本陣だった家である。宿のはづれに常夜燈がある。そこを左へ坂を下りて行く。下りた所が落合川で、橋を渡るとすぐ登り坂になる。この登り坂はそうきつくない。1kmほど行った所が山中。医王山という寺がある。「山中薬師」という名で知られて居る。脇に芭蕉の句碑があった。

 「梅が香にのっと日の出る山路かな」

とあり、嘉永6年(1853年)の建立という。
この集落は昔、「狐膏薬」を売っており、続膝栗毛に

「当方の名方狐膏薬、御道中おあしの痛、金瘡(きんそう、刃物で受けた傷)切疵、ねぶと、はれもの、所きらはずひとつけにてなほる事うけあひ」

云々とある。
この狐膏薬の看板がこの寺に所蔵されて居る。
 この先、舗装された道が左にそれ、細い坂道を登って行くことになるが、間もなく林の中の石畳の坂道になる。よく整備されていて歩きよい。昭和30年代に地元の人々のボランティアで復旧されたものだと言う。勾配もそうきつくはない。登りきった所が十曲峠でバス道にぶつかる。木曾路名所図会には「十曲嶺ー落合と馬籠の間にあり、里人は十石峠といふ。十曲とは坂路九折(つづらおり)多ければ名に呼ぶ」と記して居る。
 その先が信濃と美濃の境になる。そして新茶屋、「これより北 木曾路 藤村老人」の碑がある。今も茶屋があり民宿もやって居るらしい。その前の池のそばに芭蕉の句碑がある。島崎藤村の「夜明前」の序の章に青山半蔵の父吉左衛門が大黒屋こと伏見屋金兵衛の案内で建てたばかりのこの碑を見に来たいきさつが語られているが、その碑には、

 「送られつ送りつ 果ては木曾の穐」

裏に 「天保十三年壬寅水無月建之 京梅園古狂」と彫られて居る。天保13年というのは、西暦1842年で明治維新よりわずか25年前である。東京オリンピック(昭和39年・1964年)から平成元年の年(1989年)までと全く同じ期間に当たる。
 前にバス停があった。中津川まで日に4本ある。私の歩いたのは6月初旬の週末だったが、ここまで来るのに一人のハイカーにも会わなかった。この新茶屋で初めて幾組かの人々を見た。どうやら車で来たようだ。こういういい道でも、歩こうという人は非常に稀なのかもしれない。
 さて旧中山道を進む。1kmちょっと行くと荒町で諏訪神社がある。その鳥居の脇に島崎翁記念碑が建てられて居る。ついで、左手の丘に馬籠城址がある。木曾義昌が島崎将監重通に守らせていたが、天正12年(1584)徳川勢に攻められ将監は妻籠城へ逃れたという。この将監が島崎家の先祖で、木曾義昌の移封後、野に下り馬籠宿を開いたと言われて居る。


☆行程 
大井(恵那)→中津川 約10km,およそ3時間
付近を見物して 約3km, およそ1時間
中津川→落合 約4km, およそ1時間
落合→新茶屋→馬籠  約4km半 およそ1時間半

☆交通 
大井(恵那)までは 名古屋から中央線   約1時間半
落合からは 中津川までバス、運行回数が少ないので予め調べておいたほうがよい

☆地図 
国土地理院 2万5千分の1  恵那、中津川、妻籠

☆参考 
本文にも記したが、昔の人の旅ではこの区間は1日日程であった。だが現在見物しながら行くとすれば、大井、中津川から落合を経て馬籠まで1日で歩くのは健脚でないと無理かもしれない。その場合には、
(1)大井→中津川、(2)中津川→落合→馬篭
の2回に分けた方がよい。またできれば次回述べる「藤村」ゆかりの馬籠→妻籠→南木曾(三留野)」と組み合わせて、1泊2日かければ、このコースを無理なく歩くことができる。東京から行くには交通の便から出発点、到達点ともJRの駅を直接利用できるので便利である。また泊まるにしても、馬籠宿だけでなく付近に民宿が多い。


 

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