(六)関ヶ原を越す(その二)      関ヶ原→野上の里→垂井→美濃国分寺跡→赤坂

 関が原の古戦場を歩くつもりなら、関が原駅を降りてすぐ右へ行き踏み切りを渡った所が「東首塚」、その近くにある「関が原町歴史民俗資料館」を訪れて予備知識を仕入れて行ったほうがよい。家康の本陣跡、開戦地、小西行長陣地跡、石田三成陣地跡等、この関が原の盆地、山側に広く分布して居る。たんねんに見て歩けば一日がかりである。主要点だけ行っても半日はかかる。ここではその説明は省略する。
 関が原の宿はずれで左へ旧道に入る。間もなく「野上の里」である。ここは太古からあった里で、壬申の乱の時重要な基地であったことは前に述べた。また謡曲「斑女」の背景はこの里で、彼女が住んで居たと伝えられる「野上長者屋敷」の跡もあるという。「斑女」は約一千年前、野上が街道の宿駅として栄えて居た頃、長者の家の召使、花子と、都の公家吉田少将との悲恋を題材にした物語である。斑女の守り本尊であったとされる観音像をまつる観音堂が街道のはずれにある。本尊の木像は室町時代の作とされて居る。
 この町並は静かないいたたずまいである。左側に大きな鳥居があった。伊富岐神社へ真っすぐに延びる参道である。石標と常夜灯が立っている。『木曽路名所図会』には「祭神は、うがやふきあはせず尊で延喜式不破郡三座の内なり。」とあるが、『神道大辞典』『神社辞典』には多々美彦命を祭神とするとあり、うがやふきあはせず尊ではない。
 1kmほど行くと国道と交差、その先の民家の間に「垂井一里塚」が残っている。右側だけだが保存状態もよい。再び国道と交差し、鉄道の踏み切りを越える。
  間もなく垂井の宿に入る。左側に本龍寺がある。この本堂横の建物の玄関と廊下は昔の脇本陣から明治年間に移築したものだという。少し行くと十字路、いくらか食い違った十字路は昔の桝形の名残である。桝形というのは、城郭の一部、城の入り口の所の四角い空地をいい、武者溜まりであった。四角い土地なので桝形とよばれた。のち宿場の出入り口等に造られた四角い空地をもいうようになった。桝形の所で道がずれているので街道から宿場内が見通せないようになって居る。また駆け抜けができないようになって居る。そこで宿場の防衛施設の一種であるという説が強いが、ここに宿場人足、馬匹等が待機して居たこともあるので、むしろ溜まり場所の機能をも果して居たのではないかと思う。ちなみに、ロンドンにあるスクヱア(Square)は四角い広場で、サーカス(Circus)円形広場とともにヨーロッパの都市には名は違うがどこにもあり、都市の人が集まる広場としてだけではなく交通の拠点でもあった。スイスのベルン、フランスのニーム等ではここに泉がひかれ、人、馬の水飲み場として使われ、また馬の飼いば桶が置かれた。これと対比すると極めて興味深い。なお宿場の防衛目的には宿場内の町並を真っすぐに通さずに鈎形に何回も曲げて造った。城下町の宿場では特にそれが著しくその典型は東海道の岡崎である。東海道名所図会に「城下の町員凡六十餘町、廿七曲といふ」とあるように岡崎城下の岡崎宿は宿内27回も道が鈎形に曲がって居たのである。戦災のため古い宿場の跡はないが、岡崎市が曲り角ごとに標識を立てて居るのでその跡を辿ることはできる。
 右側に大きな鳥居がある。南宮大社の鳥居である。この鳥居をくぐって南へ行く。すぐ右手に玉泉寺という寺があり、小公園があってそこに「垂井の清水」が湧いて居る。木曾名所図会に「垂井清水ー垂井宿玉泉寺という禅刹の前にあり(中略)清冷にして味わい甘く寒暑に増減なし。ゆききの人渇をしのぐに足れり。」とあるが、今でもかなりの量の清水が涌いている。「垂井」の地名の由来はこの清水による。
 南宮大社はここから1kmくらい。大きな神社で、社叢の中に朱塗りの回廊、楼門があり、社殿も立派なもので、将軍家光の寄進になるものである。美濃一の宮で、祭神は中山金山彦神で金属を司る神として、全国の鉱工業者の信仰が厚い。
 さきの十字路を北へ行くと、橋を渡った先に府中の集落がある。もとの美濃国府があった所である。この十字路を真っすぐに東へ行くのが旧中山道で、このあたり一帯がもとの垂井宿である。この町は思って居たよりも大きい。江戸時代にも宿場としても繁盛して居たようで、当時の人別によれば、男598人、女581人、合計1179人、本陣1、脇本陣1、旅篭17、他に商家も多かった。前述の図会には「駅中東西六七町許(ばかり)相対して巷をなす。其余散在す。此辺都会の地として商人多し。宿中に南宮の大鳥居あり」とある。
  この町並は建物は改築されて居るが、古い面影をかなり残して居る。ただ案内書に江戸時代からの旅館が何軒か今も営業していると記してあったので、そのうちの1軒、「亀丸屋」を訪れた。確かに旅館の看板を出しており、二階には連子格子の出窓があり、昔の面影を残して居るが、休業中で泊まれなかった。この他には街道筋に残って居る旅館はなく、付近に2〜3軒あったがいずれも休業中とか満員とかで断られた。止むをえず大垣まで行きホテルに宿泊した。
宿はずれに相川を渡る橋がある。その橋を渡ると四つ角、そこを右折し、相川の支流の小さな橋を渡ると道は二つに分かれる。左へ行く道が旧中山道、右へ行く道が大垣道で、竹鼻を経て清洲、名古屋に出、或は大垣の先で川船を利用し、熱田で東海道に合する道である。この道も古くからあり、鎌倉時代には京から鎌倉に下るのに、近江の中山道を通り、この道経由で熱田から東海道を行くことが多かった。更級日記、東関紀行などの著者は皆このルートを通って居る。また江戸時代でも盛んに使われて居る。芭蕉は「奥の細道」では垂井から大垣まで行き、ここで筆をおいているが、この後そこから舟で桑名へ出て居る。このような事実から見ると垂井宿は古くから交通の重要なポイントであったことがわかる。左へ行く中山道は赤坂宿に続くが、工場等が多く、車の通行が激しい。その上、道が広くないので、ここを歩くことはおすすめできない。旧中山道にこだわらなければ、垂井宿を出たさきの橋(相川橋)を渡ったすぐの十字路を北へ行く道を辿って、府中へ行くことをおすすめしたい。前述の鳥居のある十字路を北へ行く道と並行しているので、府中の集落へは15分くらい歩くと着く。この集落は今は単なる農村風景だが、細いが整然と区画された道で家並が作られて居る。ここには、「南宮大社御旅所」があり、今でもお祭りの際には神霊をここへお迎えする行事がある。その先の安立寺あたりは美濃国府があった所である。
 ここから田圃の中の道を東へ20分ほど行くと平尾の集落に入る。ここには平尾御坊といわれる蓮如上人ゆかりの願証寺がある。大きな伽藍と広い庭がある。この寺のあたりにもとの国分尼寺があったとされている。
 再び田圃の中の道を行く。道端に塚があり、中世の盗賊熊坂長範が隠れて居たという伝説がある。歩くこと15分くらい、元美濃国分寺があった所に出る。発掘調査が行われ、かなり詳しいことが判明した。発掘調査後埋め戻して現在史跡公園になって居る。史料館もある。その奥、山の麓に、現在国分寺と称する寺がある。ここには鎌倉時代の作という欅一本造りの薬師如来の座像が収蔵されて居る。私はここへ3度来て居るが最初の時はうす暗い本堂の中に鎮座し拝観希望に応じて見せて居てくれていたが、最近、収蔵舘をつくり安置し、拝観料をとっている。この仏像は一見に値する。
 ここからすぐ南が青野で、1kmほど東へ行った所が「青墓」である。中世宿駅として栄えた所で、遊び女も大勢いたといわれる。平治の乱に敗れた源義朝はこの地で一子朝長を失い、尾張まで落ちのびて殺されたと伝えられる。もっと古い時代にも栄えて居たと思われ、多数の古墳が散在する。この道は旧中山道で、ここまで来ると赤坂宿もそう遠くない。垂井へ戻るにはバスもあるが、回数が少ないのでむしろ赤坂まで歩いて大垣行きのバスまたは電車を利用したほうがよい。赤坂にも一部昔の宿の面影を残しているところがある。
 鉄道のガードをくぐると昼飯(ひるい)。鉄道引き込み線踏み切り脇に「赤坂宿御使者場跡」の表示があり、その先の十字路には道標がある。このあたり殆どが建てかえられて居るが、古い家が少し残って居る。この角に本陣跡がある。またその隣が今井本では本陣跡だとして居るが、町の表示ではそこから200m程先のガソリンスタンド隣の空き地に本陣跡の表示がなされて居る。
  この先に浅間神社があり元赤坂港跡だといわれている。杭瀬川は元このあたりを流れており水量も多く川幅が広く、水運に盛んに利用されて居た。その名残というが、今それを想像するすべは殆どない。

 

☆行程 
関が原駅から野上の里を経て垂井駅まで、 約6km, 約2時間     
南宮大社 往復 約3km, 約1時間     
府中、平尾を経て美濃国分寺跡から青墓まで 約6km, 約2時間     
青墓から赤坂まで 約2km, 約30分

☆交通 
関が原まではJR関が原駅、名神高速バス関が原ICから     
垂井からの帰りは JR垂井駅から     
青墓からの帰りは 垂井へバスがあるが回数は少ない   
赤坂からの帰りは JR赤坂駅から、また大垣までバスもある。

☆地図 

国土地理院 5万分の1 彦根東部、長浜、大垣 

 

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