(五)関ヶ原を越す(その一)      醒ケ井→柏原→不破関→関ヶ原

  このコースも大体において旧道が残っており、車の往来も少ないので、安心して歩ける。ただ関ヶ原のあたりだけは国道を歩くことになるので、約2km程排気ガスと騒音等を我慢して歩かねばならない。不破関は古来有名な難所で、現代でも東海道線は開設の時からの難所であったし、同新幹線も冬季には雪害などで不通、遅延がしばしば起きている。こうした難所を越えるのだからと、かなりの急峻な山道を覚悟して行ったのだが、意外や勾配はきつくない。醒ケ井のあたりで海抜標高120m、今須のあたりが一番高く180m、不破関で120m、垂井で50mぐらいで、標高差の点だけで言えば、箱根や鈴鹿、碓井、和田などの他の関、峠と比べずっと楽で多少起伏のある道という程度である。ところが関ヶ原を歩いて越して改めて実感したのは、近江と美濃の国境という重要な位置で、しかも容易に通過できる地点はここ一ケ所しかないということだ。北に伊吹山塊、南に鈴鹿山系の山々が迫っていて、その間の低地の幅はせいぜい2kmもないという狭い谷間になつている。
 日本史上この地で天下分け目の戦いは2度行われた。1回は周知の家康と三成の対決、慶長5年、西暦1600年のことである。もう1回は案外知らない人が多いが、大化の改新後天智天皇がなくなり、その子大友皇子(弘文天皇)の近江朝と叔父に当たる大海人皇子(のちの天武天皇)の吉野方が戦って居る。これを壬申の乱という。西暦672年のことである。近江朝方は敗れ、更に瀬田で潰滅する。
 この関ヶ原を見て歩こうとすると、ここだけでも完全に1日はかかる。また垂井の近くには、昔の美濃国府跡、国分寺跡や、古い宿駅、青墓がある。醒ケ井→垂井間は23km程度、6時間くらいで歩けるが、ついでにこれらの旧跡を見るつもりなら、少なくとも日程を2日間とりたい。参考までに私の場合は中山道歩きとは別の機会に、関ヶ原で1日、美濃国府、国分寺跡あたりで1日とそれぞれ日程をとつた。つまりこの付近を見るのに三日間かけたということである。
 さてJR醒ケ井駅を出発、前回の地蔵堂まで約5分、ここからしばらく静かな田舎道を歩く。八幡社の先で国道に合する。この国道を500mくらい歩くと再び旧道になる。この旧道には杉並木が残っている。但し、その脇にケバケバしいラブホテルが何軒か建っている。必要悪でどうせ作るならせめて周囲の景観に合ったものにしてもらいたい。折角の松並木の写真をどの角度で撮ってもラブホテルのキャラキャラした建物、看板が入ってしまう。
  このあたりが梓、小さい橋を渡って行くと道端の崖の斜面に「黒谷遺跡」がある。墓のような感じだが古墳時代よりも古いものだという。やがて長沢の集落に入る。一里塚があったはずだが痕跡もない。そのかわりNTTの中継所があった。そばに道標があり、「明星山薬師みち」とある。そこを過ぎると左に丸山、右は小川と田んぼ、僅かだが松並木が残っている。 この丸山の中腹には北畠具行の墓がある。元弘3年(西暦1333)の後醍醐天皇の倒幕の謀に加わり、事破れて捕えられこの地で斬られた。草薮の中の細い道を500mほど登る。途中蛇が出て来てギョッとしたが、青大将だったので静かにお通りを待った。貞和3年(1347)に建てられたという供養塔がある。
  旧道に戻る。柏原の宿はすぐである。宿の入り口に常夜燈があった。この宿は昔の町並をよく残して居るが、特に見ておきたいのは「伊吹堂」である。今も営業しているもぐさ屋で、店先には「伊吹もぐさ」の看板を吊し、店の中に「福助」の大きな人形を置いて居る。この人形が昔からのものかどうかは確めていないが、広重の「柏原」の絵にそっくりである。屋号は「かめや」という。
 近くに郵便局があり、その隣が元本陣であったという。ここはわりと大きな町で、宿としても昔から繁盛していたようだ。当時の記録には、男740人、女728人、計1468人、本陣1、脇本陣1、旅篭22とあり、壬戎紀行には「柏原の駅につく。駅舎のさまにぎはしし。伊吹艾のひさぐもの多し。」と記して居る。
 柏原の宿をぬけたところで、東海道線の踏み切りをわたる。すぐ上に神明社がある。その下の静かな道を行くと長久寺の部落に出る。ここが近江と美濃の国境で「寝物語の里」とも言った。国境を挟んで隣どうしの家で寝物語ができたというのが由来だそうだが、小さな川を渡ってすぐ右に「寝物語里」なる標識が立って居る。後でわかったことだが、この標識の地はすでに岐阜県で、先述の小川が国境だという。その道端にあい隣して2軒の建物があり、1軒は近江側だが無人で朽ちかけて居る。昔は旅篭で「かめや」といった。(町役場の話し)
 広重の今須宿の絵にはこの地が画かれ「江濃国境」という境界柱が立ち、その両側に旅籠か茶屋か2軒の家があり、「不破関屋」という看板のある家で吸いつけたばこをしている2人の旅人が画かれて居る。但し今須の宿はもっと先にある。今須宿の題材にここを選んだということなのだろう。この標識の前の草に覆われた空き地に芭蕉の句碑があった。10年ほど前に建てられた新しいもので、

「正月も美濃と近江や閏月」

とある。
 この句は芭蕉がこの地を通過したと思われる「野ざらし紀行」にはないし、岩波古典文学全集「芭蕉句集」にもない。岩波文庫「芭蕉俳句集」には存疑の部つまり芭蕉の句として伝来されて来たが、芭蕉の句であることが疑わしいグループの中に収録されて居る。今の通説では芭蕉の句である可能性は殆どないという。
 坂を下りた所が今須の宿で小さな集落である。江戸中期の「諸国道中袖鏡」には「宿あしく山坂谷道也」とあるが、今は古い家も残っておらず見るべきものはない。ただ街道の左手に国道、東海道線のガードをくぐった先に「妙応寺」がある。丘を背にした立派な伽藍と庭がある。
 旧道に戻り、国道を渡り、東海道線の線路を越えて坂を下り、新幹線のガードをくぐった所が山中の集落だが、その手前の薮の中に数基の墓がある。それが源義經の母「常盤御前の墓」と伝えられるものである。芭蕉はここで

「義朝の心に似たり 秋の風」

という句を作っている。この句は「野ざらし紀行」に載って居る。
 ここを流れる小川が前述の壬申の乱の時、吉野方と近江方との激戦があったという「黒血川」である。東関紀行で

「柏原をたちて美濃の国、関山にかかりぬ。谷川霧の底に音づれ、山嵐松の梢にしぐれわたりて日影も見えぬ木の下道、あはれに心ぼそし。越えはてぬれば不破の関屋なり」

と記して居るのがこのあたりだろうが、何と無くその面影はある。山中の集落を過ぎ、国道を横断歩道橋という無粋な橋で渡って下りたあたりが藤下、この下を流れるのが藤古川、この川にかかる橋の上に立つと、現代の交通の4つの動脈、つまり新幹線、高速道路、東海道線と国道を一度に眺めることができ、また川の両岸の景観もなかなかよい。この川はすぐ先で前述の黒血川をあわせ、桑名で伊勢湾に注いで居る。先ほど通った長久寺の境が分水嶺であったわけだ。壬申の乱ではこの黒血川、藤古川をはさんで激しい戦いがあった。川が人血で黒く染まったため「黒血川」という名になったという。近江朝方は敗れ、宇治川まで後退しここでも敗れる。大津の近くの山前という所で大友皇子は殺されるが、その墓と伝えられるものが、この橋の手前すぐを山裾を右へ登って行った所にある。悲劇の主人公は長いこと天皇と認められずにきたが、明治になって天皇に列せられ謚名を「弘文天皇」とされた。墓も実際の死去地に建てられたものではない。推量の域を出ない。従って宮内庁の陵墓参考地とされており、弘文天皇陵は大津市内に別に造られて居る。ただ大海人皇子はこの先の野上の地を本営にして全戦線を指揮して居た模様で、大友皇子の首をこの地まで運ばせ実験をしたという説もあるので、このあたりに埋葬された可能性は十分ある。
 関ヶ原の戦や、不破の関は有名なので観光客は多いが、ここまで足をのばす人は少ない。私見では壬申の乱は、日本の天皇制の確立、律令制をはじめとする政治体制を、大海人皇子と鵜野讃良皇女(のちの天武、持統天皇)夫妻で成し遂げて行った最初で重要なエポツクメーキングな事件だったと思う。更に私見を付け加える事が許されるならば、日本史上、この二人は為政者として第一級の人物といえる。また世界史上の傑出した女帝を挙げる場合には、その第1にこの持統天皇をあげたい。
 橋から不破の関は近い。今、医院の敷地になっていてその一部を関跡として整備し開放して居る。近くに関ヶ原町で記念館を建てた。この関所は壬申の乱後につくられ、越前の愛発、伊勢の鈴鹿とともに3関と呼ばれるほど重要な関であった。しかし平安時代のはじめ延暦8年(789)廃止され、鎌倉初期ごろは、東関紀行に「越えはてぬれば不破の関屋なり。萱屋の板庇年経にけりと見ゆるにも、後京極摂政殿の荒れにしのちはただ秋の月」云々とあり、廃屋としては残って居たらしい。江戸時代にはすっかり寂れ、壬戎紀行には「板橋をわたりて坂を上る。大関村という。これ不破の関舎の跡なりという。軒端朽ちたるあばら屋に」云々とあるが、芭蕉はここで

「秋風や薮も畠も不破の関」

という句をつくっている。当時の状況を彷彿とさせる。この句碑が前述の関跡にある。
 ここから先は関ヶ原古戦場にまつわる旧跡がいくつもある。これらについては説明を省略するが、旧街道を通るうちに「西首塚」を見る。「東首塚」は関ヶ原宿のT字路を北国脇街道へ折れ少し先、線路を越えた脇にある。ともに関ヶ原合戦で敗れた西軍の将兵の首を埋めた塚である。
 この北国脇街道は伊吹山の麓を通り、高月、木之本を経て越前に至る。ついで右折する道がある。「美濃中道」ともいい、牧田から桑名や津島へ行く道である。関ヶ原合戦で敗れた島津勢が家康の本陣を中央突破し、この道を大きな犠牲を払って退却、わずかに帰国できたのは島津義弘以下数十騎であったという話しが伝えられて居る。
 このあたりが、もとの関ヶ原宿があった所で、表側2階、裏側1階の土蔵造りの家がいくつか残って居る。昔の旅篭らしい建物もある。本陣と脇本陣が各1軒づつあったはずだが、今は何も残って居ない。
 ここから街道を左に入るとJR関が原駅である。先にこのコースは1泊2日の行程を考えた方がよいと述べたが、その場合泊まるとすれば関が原である。ここには何軒かの旅館と民宿がある。

 

☆行程 
醒ケ井から柏原、不破関跡、を経て関が原駅まで、約17km,約5時間
☆交通 
醒ケ井まではJR醒ケ井駅下車     
関が原からの帰りはJR関が原駅から、または関が原ICから名神高速バス利用
☆地図 
国土地理院 5万分の1 彦根東部、長浜、大垣 

 

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