(三)近江の中山道(その二)    武佐→老蘇の森→愛知川→高宮

 近江鉄道の武佐駅の少し手前から、旧道が国道と別れる。ここから老蘇の森まで、しっとりとした静かな道が続く。武佐駅から行くなら、踏み切りを渡って左折、少し行った所に武佐寺がある。長光寺ともいう。その寺名のゆかりでこのあたりを長光寺村といった。 ところで、東関紀行の作者はこの寺のあたりに泊まって居る。同書によれば、

「行きくれぬれば、むさ寺という山寺のあたりにとまりぬ。まばらなるとこの、秋風夜ふるるままに身にしみて都にはいつしかひきかえたるここちす」

とある。 同書は作者不祥だが、仁治3年(1242)に京をたって鎌倉までの旅の紀行文である。この頃からこの寺があり、あたりは淋しいところであったことがわかる。
 さて、旧道に戻って少し行くと常夜灯がある。このあたりが昔の武佐宿があった所で、前述のように静かなたたづまいである。江戸時代もそう繁盛した宿ではなかったらしく、江戸時代の史料『中山道宿村大概帳』によると、男172人、女165人で女の方が少ない。計337人で、この人別からみると宿駅の規模としては比較的小さい方である。
 宿のはずれに大きなお宮がある。「鎌若宮」という。このあたりは西老蘇である。間もなく「老蘇の森」に出る。ここは古来和歌や紀行文で有名な森である。前出の「東関紀行」では、

「この宿をいでて、笠原の野原うちとほるほどに、おいその森という杉むらあり。下草深き朝露の、霜にかはらむゆくすえも、はかなく移る月日なれば、遠からずおぼゆ。  かはらじな我がもとゆひにおく霜も名にしおいその森の下草」

とある。 
 昔は広大なものだったらしいが、今は「奥石(オイソ)神社」の境内とその隣接地に森が残って居る。それでもかなり広く、しかもあまり荒らされて居ないのと、手を加えられて居ないのが何よりもよい。
  ここを過ぎると国道8号線にぶつかる。旧中山道はここから清水鼻まで国道に吸収されているので歩きにくい。そこで国道を越えて真っすぐに行くことにする。突き当たりは観音寺山の下、石寺の集落である。ここは近江源氏佐々木氏が守護として勢力を張った所である。この山の中腹に観音正寺、佐々木氏の拠点であった観音寺城があった。佐々木氏が六角、京極2流に分かれた後は六角氏の居城であった。永禄11(1568)年、城主六角承貞は織田信長の上洛を阻止すべく戦ったが、利あらずして落城、寺を含めて信長勢にすべて焼き尽くされたという。中山道歩きの目的からは、この城址まで見るために登るのは行程的に無理で別の機会に行くことになるが、山の麓、この地、石寺が佐々木氏によって「楽市、楽座」が日本で最初に開かれた所だということは覚えておいてもよい。「楽市」というのは、税や寺銭を一切かけず自由に商売ができる市場ということであり、「楽座」というのは、「座」つまり西洋中世のギルドのような商工業の特権組合の制約なしに誰でも参加できる交易の市場ということである。今は小さい集落があるだけで何の痕跡も残っていない。
 山麓の道を辿ると前述の清水鼻の所で国道と交叉する。交叉した先が旧道である。このへんから五個荘町になる。清水鼻はもと立場で江戸時代の巡覧記という本には「清水鼻ー酒屋あり。清水女良とて女よき所と云。一里塚。」云々とある。今は茶屋も一里塚も何も残っていない。旧道を行くと立派な町役場があるがその先を鉤の手に曲がるのが旧道、もと小畑村である。その中程に道標がある。表に「右、京みち」左横に「左いせひの八日市みち」とある。細い道なので注意しないと見落とす。この道が、多賀からの伊勢への近道で土山で旧東海道に合するルートである。
  愛知川の土手に出て国道の橋を渡る。「御幸橋」という。ここからしばらく我慢して車の多い国道を歩かねばならない。途中、国道里程標があった。黄色い石標で536と書かれている。国道8号線は起点が新潟だから、新潟市からここまで国道で536kmあるということである。木曾路を歩いた時もやむを得ず国道を歩いた区間がかなりある。木曾路の国道は19号線だが、名古屋起点、長野までで、里程標を見付けると自分の歩いた距離を正確に確かめられる。
 ところで、15分程国道を歩くと右へ行く道がある。これが旧道で愛知川の宿に入る。この宿は中世以前からの宿駅だが、江戸時代の案内書などによるとそう殷賑を極めた所ではなかったらしく、前記の『中山道宿村大概帳』には本陣1、脇本陣1、旅篭28、宿内人別は男471人,451人と女の数の方が少ない。今、昔の宿場の面影は殆ど残っていない。宿の中程で左へ入ると国道近くに豊満寺がある。中世の豪族の屋敷跡と言われている。この寺は豊満神社の別当寺だったところで、豊満神社は籏神豊満大社ともいい、祭神は大国主命(オオクニヌシノミコト)、息長足姫命(オキナガタラシヒメノミコト)、足仲彦命(タラシナカツヒコノミコト)、誉田別命(コンダワケノミコト)である。籏神(ハタガミ)というのは、このあたりを開拓した秦氏の祖神を指すものと考えられている。街道から2kmほど南へ行った所にある。
 宿を出てしばらく行くと式内「石部神社」がある。今井本や案内書には出ていないが、かなり大きな神社である。歌詰橋で宇曽川を渡る。珍しい名の橋だが、江戸時代からあり、その当時は板橋であった。その先の千樹寺の門前に「江州音頭発祥の地」という石碑が立って居る。このあたりが上枝、下枝地区だが、そこをはずれると田んぼが散在する。「天稚彦神社」の表示のある所を左へ入る。細い参道の奥に神社がある。国史現在社に指定される古い神社で、祭神は天稚彦(アメノワカヒコ)である。神話で天孫降臨の前に出雲につかわされ戻らなかった神で、こういう場所に祀られているというのは何の関係からなのだろうか?。興味がある。
 豊郷町の八目(ハチメ)には「紅公園」がある。昭和10年、伊藤忠商事・丸紅商店の創始者伊藤忠兵衛を記念して造られたものといわれ、近くに生家があるが、それにしても大商事会社の創始者を記念するものとしては質素な公園を造ったものである。それより、そこから600mほど歩いた所にある「豊郷小学校」はすばらしい。私は何かの研究所か大学かと思ったくらいの広い敷地と立派なセンスのある校舎が建つ。この土地の出身で成功した人(丸紅の番頭だった古川鉄治郎という人である。)が昭和12年に寄付したものだという。敷地は12,110坪、当時の金で建物に約30万円、土地に2万4千円の大金を寄付した。現在の金に換算してどのくらいの金額になるのか?。また今の財界で名をなした人の中にこのような地味な善行をされて居る人が何人いるだろうか?。現在この小学校は23教室、生徒332人が学ぶ。それこそ「ゆとりのある教育」がなされているのではなかろうか?。都会の者にとつては羨ましい限りである。
 その先、右に入った所にあるのが「惟念寺」、大きな風格のある伽藍と整備された庭がある。ここは文和年中(1352~56)に北朝、後光嚴院が行在された寺で、山号の額、宸斡などを賜ったと言われて居る。
 この道は車が比較的多くないのでのんびり歩ける。20分くらい歩くと松並木が見えて来る。出町という所である。枯れてなくなっているものが多くまばらではあるが、一応並木として続いて居る。近江の中山道には松並木は殆ど残って居ない。草津からではここが初めてで、この先関ヶ原までに2,3か所残っているに過ぎない。その意味で貴重だが保守にどのくらい気を使うかにもよるが、私の見る限りではいずれも21世紀まではもたないのではなかろうか。
 道は少し車の往来が繁くなる。高宮橋で犬上川を渡ると高宮の宿である。かなり大きな町で古い町並を残して居る。だが昼食時間にかかったので、どこかで食事をしたかったが、街道筋には一軒も飲食店がなかつた。古い街道歩きをやっている時困るのは食事である。弁当持参ならいいが、それができない時、食事をする場所を探すのに苦労する。国道の要点にそういう施設が固まって居るいることが多く、車の通る主要な道でない旧道だと駅前でも無いことが多い。車社会の現実をいやという程思い知らされる。
 この町並で見るべき所は2か所、旧家の小林家、もとの本陣で当時の立派な門が残っている。この町並には卯建(ウダチ或はウダツともいう)のある旧家が何軒かある。注意しないと見落とす。卯建というのは、説明の要もないと思うが、もとは建物につける梁上の束柱のことで、民家の妻壁(棟と直角の壁面)の横に張り出した袖壁をいう。誰でも出来るものではなく、富裕で一定の格式のある家でなければ上げられなかかった。「うだつがあがる」「うだつがあがらない」ということで、「成功する、しない、」の意味を持たせて居る語源はここにある。
 先の旧本陣からすぐに十字路があり大鳥居が立って居る。これが多賀神社の大鳥居で、高さ11m、柱の太さ直径1.2m、柱間8m、という大きさで、寛永(1624~44)社殿造営の時の建立という。わきに「是より多賀みち三十丁」の道標があり、うしろには常夜燈が立って居る。当時の資料によれば、男1755人、女1805人、計3560人で今までに通過して来た宿より際立って大きい。多賀神社を控えての宿場で繁栄したこともあり、また「高宮布」というさらし布、麻布を織り、かなりの商いをしていた。一返舎一九の『続膝栗毛』には

「ネイ、わしは高宮のえびすやでござります。名物の高宮嶋、さらし布類ご用ならわしのところで買うて下さりませ、随分おやすう致してあげましよ」と客引きに誘われ二人は断って「買いもせず名物の名のたかみやに、恥をさらしてとほるうき旅」云々

とあるが当時の様子が彷彿される。
 なお高宮神社はここから約一里、「お伊勢参りはお多賀へ参れ、お多賀お伊勢の親の神」と俚謡にあるように、伊勢参宮の盛んな当時、帰りにはここへ立ち寄り参拝するのを例としたという。親神というのは、祭神が天照大神の親神である伊邪那岐神であるからである。この「旧中山道歩き」では割愛したが参拝すべき神社である。近くの胡宮、湖東三山、石塔寺などと組み合わせて行かれることをおすすめする。

 

☆行程  
武佐から老蘇森、石寺、愛知川を経て高宮まで19km,5時間

☆交通  
武佐まで、JR近江八幡乗り換え近江鉄道武佐駅下車
高宮から、近江鉄道高宮駅からJR彦根または米原で乗換え、1時間に2本くらい

☆地図
  
国土地理院5万分の1 近江八幡、彦根西部、彦根東部

☆参考 
 
多賀神社へは近江鉄道高宮駅から多賀駅まで、5分程度

 

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