(二)近江の中山道(その一)   草津宿→守山→武佐

 中山道の起点は江戸の日本橋、終点は近江の草津宿である。私は前述のように江戸から京まで旧東海道を歩いて上り、帰路に中山道を通ったので、この文の出発点は草津、終点が江戸・東京になる。
 草津は最近急速に発展している。工場や輸送の拠点等産業の立地としてだけではなく、京阪のヒンターランドとしての住宅地の開発が著しく、行く度に変貌して居る。だが幸いなことに、草津宿のもとの街路は江戸時代そのままとはいえないが、その面影を残して居る。私はここへ4回来ているが最近草津活性化ということでこの古い通りもかなり変わりつつある。
 草津駅を降りて真っすぐに東に行くと十字路がある。そこを左折すれば、守山宿、右折すれば草津宿、京への旧中山道である。守山への道を辿る前に「追分」に寄って見ることにする。右折すると、商店街だがその先にトンネルがある。トンネルの上を川が流れて居るという極めて珍しいもので、川は、道の下、橋の下を流れて居るものだという常識を覆す。この形状は東近江には幾つもの例があり、「天井川」といわれる。旧東海道の場合にも二三箇所あった。
 このトンネルは明治以後にできたもので、江戸時代にはこの天井川(草津川という)の土手を登って橋を渡り向こう岸の土手を下りた。今その道はない。ただ旧東海道にはその痕跡が残って居る。トンネルをくぐるとそこから草津宿となり、すぐに追分がある。T字路になっていて、真っすぐ行く道が京への道、左折して行く方向が伊勢、江戸への旧東海道である。角に立派な道標、文化十三年(1816年)建立の常夜燈が建って居て、そのように刻まれて居る。道標のある角の向い側にもと本陣があった。草津宿には本陣として、田中九蔵本陣と田中七左衛門本陣とがあった。前者は今跡形もない。後者は前述のように追分の角右側にあったが、現在解体修理中である。工事の終わるのは平成7年だという。平成2年(1990年)2月3日〜4日解体修理前の建物が一般に公開され、この本陣の由来、維持の歴史が語られ、古い宿帳や大名などの滞在メモ等貴重な資料が展示され、また数々の催しが行われた。宿帳は明治まで181冊もあり、浅野内匠守、大石良雄蔵之助などの名が載って居る。明治以後本陣は廃止され、一時栗太郡の郡役所、そして町の公民館として使われた事もあったが、田中家が個人でこの古い由緒のある建物を守って来た。当主の田中文子さんの話では、学校に勤めて毎年夏のボーナスがそっくりこの建物土地にかかる固定資産税として持って行かれ本当に情けなかったという。国が重要文化財として指定し維持して行くことを決めながら、何の補助もしないどこころか、重い税を取り立ててきたとはひどい話である。なお敷地は1300坪もある広大なもので東海道宿場本陣のうち1200坪以上あるものは5カ所しかなかったという。
 草津宿はここから四五丁続くわけだが、昔の建物の残って居るものは殆ど無い。しかし戦災にあわなかったせいか、昔の宿を彷彿させる何かがある。
 さてこれから出発、トンネルを再び抜けて戻り、旧中山道を北へ向かって歩く。最初の宿が「守山宿」だが、その間の道筋を説明しよう。
 さきに草津駅から来た十字路まで戻る。この十字路のひとつ手前に右折していく道が明治になってできた東海道の新道で、その道を入るとすぐ「覚善寺」、門前に大きな「右東海道」「左中山道」と書かれた道標がある。これは明治十九年に建てられたもので、江戸時代の東海道は前にふれたように、追分のT字路で別れて、草津川の土手を登り、橋を渡り(橋がなく渡渉したという説もある)対岸の土手を下って行く。明治になってできた新道とは国道1号線をこえた先で合している。
 この十字路のあたりは江戸時代には草津宿ではなかった。大路野井村といった。そこから北へ歩くこと約500m右側に神社がある。「伊砂砂(イササ)神社」という。由緒のありそうな名だが、これは明治二年につけられた社名で、もとは「渋川大将軍社」あるいは「天大将軍社」といわれていた。祭神が石長比売命(イワナガヒメ)寒川比古命(サムカワヒコ)寒川比売命(サムカワヒメ)伊邪那岐神、素盞鳴尊の五神で、前三神の頭文字をとってつけたものという。現在の東京都大田区が戦後「大森区」と「蒲田区」と合併してできた時、それぞれの区名の一字をとって新しい区の名としたのと同じ例である。この神社は名は新しいが由緒は古い。社殿の横に保存されて居る旧本殿は重要文化財に指定され、應仁2年(1468)建立というから室町時代の中期、足利義政の頃である。この建物は一見に値する。
 この先旧道は続くが鉄道線路に遮られて行き止まりになるので、広い通りを越えて少し行った所で左折、鉄道線路の下をくぐる。1kmほど行くと「大宝神社」がある。このあたりにはまだ田んぼがかなり残っており、この街道からその田んぼ道を少し入った所にある。もと「大宝天王社」といった。祭神は素邪盞鳴神、ここには古い棟札がある。弘安六年(1283)建立というから、鎌倉時代、元寇のあつた頃である。また木造の狛犬一対も珍しい。この二つは重要文化財となって居る。社叢もあり境内も広い。
 旧街道に戻る。この道は車が多くないのでのんびり歩ける。守山宿の手前に「焔魔堂」がある。地名にまでなって居る寺だが現存するのは小さなお堂、それでも信仰する人が多いとみえてかなり花と線香が供えられて居た。少し行くと右手広場の隅に塚がある。もとの「今宿一里塚」東側のものである。西側のもあったはずだが、痕跡も残って居ない。この広場の裏に当たるところに「勝部神社」がある。もと「物部大明神」といい、明応元年(1492)造営の本殿が残って居て重要文化財に指定されて居る。
 街道に戻ると守山の町である。道は右にカーブして行くがその曲り角に「守山寺」がある。守山宿の地名のもとになった。一般には「守山観音」とよばれ、「東門山守山寺」と号し、本尊千手観音、十一面観音両像を安置し、延暦十三年(794)傳教大師の創建になる古い寺で、今は延暦寺の支配下にある。前述の仏像や石造の宝塔など重要文化財に指定されて居る。ここから先が「守山宿」である。家は建て変えられて居るが、町並は昔の宿場の感じをかなり残して居る。
 なお守山寺の手前に左折して行く道がある。志那、芦浦へ行く道である。芦浦はここから約一里、芦浦観音寺がある。この寺は、今は埋め立てで湖岸から離れて居るが、昔は湖岸に面した要衝の地で、二重の堀をめぐらし城廓のような造りになって居る。火災に何度も遭って古い財宝は少ないが、それでもそのかなりのものが残って居て一見に値する。但し内部の見学には予め管理する人の許可がいるので、急に行っても外側から見ることができるだけである。私の場合には、近江にあるいくつかの古い寺を訪ねた別の機会に見学した。近江には京、大和ほど有名ではないが、いい寺が数多くある。有名でないだけ参観者も少ないので、静かに古いただずまいに浸ることができる。
 守山宿をぬけ野洲川を渡る。近江では最も大きい川で、奥は甲賀、信楽そして東海道水口、土山、その先の鈴鹿山中に発して居る。川を渡り東海道線の線路をくぐると野洲の町で古い町並が続く。この町並に入ってすぐ左手へ行く道がある。「朝鮮人来朝道」といい、江戸時代朝鮮(李王朝)からの使節が渡来した時通った道である。これは近江八幡から彦根を経て鳥居本に至る。将軍が上洛した時も通った重要なルートであった。現在の東海道線はこのルートに沿って造られた。
 旧街道を進むと、間もなく東海道新幹線のガードをくぐる。このあたりが小篠原、こんもりした山があり、その中腹に古墳が二基ある。甲山古墳と円山古墳である。近くに銅鐸が大量に出土したので有名である。右手南側に見えるのが「三上山」、432mと高くはないが俵藤太秀郷の百足退治の伝説がある。秀麗な山で古来信仰の対象とされて来た。その里宮として「三上神社」が街道から少し離れたところにある。現在は旧道に並行して走る国道8号線沿になって居る。式内社で由緒は古い。社殿は鎌倉時代のもので国宝、拝殿や楼門などは重要文化財となって居る。旧道に戻って少し行くと篠原神社がある。この地の産土の神を祀る。社叢が鬱蒼と茂って境内は静かに瞑想に耽るのによい。
 歩くに気持ちがいいのはこここまでで、すぐ先で国道と合する。ここから武佐までは一部旧道が残って居る所もあるが、大型の自動車がひきりなしに飛ばしているので、とても歩行できるような状況ではない。私は全部を歩き通すのが目的だったので歩いたが、人にはすすめられない。ここから引き返すか、タクシーを呼んで武佐まで行く方がよい。途中鏡の里を通る。ここには平宗盛、宗清の墓がある他、牛若丸伝説があって、義經が元服したという「元服の池」烏帽子をかけたという「烏帽子掛け松」などがある。古くはここに「鏡の宿」があり、古今集に

「鏡山いさたちよりて見て行かむ年経ぬる身は老いやしぬると」

(大伴黒主の作という説がある)とあるのをはじめ、多くの歌に詠まれ、また「東関紀行」などの紀行文にも出て来る所である。そこの長者に烏帽子屋五郎太夫がおり、ここで牛若丸は源氏の烏帽子を作ってもらい元服したというのである。そのあとが「鏡神社」だとされている。また江戸時代には立場だった所だが今はその面影はない。

☆行程 
草津駅から守山宿、野洲を経て篠原神社まで約13km,3時間半 そこから国道を鏡の里を経て武佐まで歩くとして更に 約 8km,2時間

☆交通
篠原神社の手前の三上神社のあたりまでバスの便はあるが回数が少ないので、武佐へ行くならタクシー利用、武佐からは近江八幡まで電車、バスの便がよい

☆参考
篠原神社から引き返すなら野洲駅まで、同じ道を歩いても3km弱だが、少し遠回りになるが神社から少し先で左へ行く道を行けば、線路の反対側に出られる。そこに前述した「朝鮮人来朝道」が通って居る。細い道だが車が多くないので安心して歩ける。野洲駅まで4kmぐらい約1時間である

☆地図 
国土地理院 五万分の一 京都東北部、近江八幡

 

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