(第6)長久保道とその延長

 練馬を通る道で主要なものとして清戸道を取り上げましたが、他にも重要なルートは幾つもあります。私が前に取り上げた仮称阿佐ケ谷道、豊島園経由ルートもそれですし、今は切れ切れになってルートとして機能していませんが、井荻から谷原経由赤塚、早瀬へのルート、また富士大山道、深大寺道など多数あります。以後逐次これらを取り上げて行こうと思います。なお脇往還として重要な役割を果たした川越街道や青梅街道も無視できませんが、既に著作、文献などが多く著名なので最後に取り上げようと思っています。

(1) 長久保道の起点、高松2丁目から光が丘まで
(2) 高松5丁目から長久保まで
(3) 長久保道の延長・馬場から野火止を経て下清戸まで


(1) 長久保道の起点、高松2丁目から光が丘まで

 はじめに取り上げる長久保道は清戸道の延長あるいは枝道としての扱いですが、私はもっと別の視点を持っています。それはおいおい述べることになるでしょう。
 清戸道の項で何遍も出て来た高松の宮田橋跡に立つ供養塔ですが、この角からすぐに右へ行く狭い坂道があります。細い道ですが、明治の地図にはしっかりとした道筋として描かれています。これが長久保道です。現在この付近は環状8号線道路の延長工事をしています。急な坂道ですが長くはありません。上り切ると右手は高松八幡、そして前に若宮の小さなやしろがあります。8号線の道路範囲になっているので、近いうちに移設されることになるでしょうが、このやしろがあるが故に、この地域を若宮といっているのです。
 そこを過ぎまだいくらか農村の雰囲気のある道を行くと、若宮公園があります。ここに長久保道の説明板が立っています。練馬区の教育委員会が昭和63年3月に立てたものですが、長久保道について要領よくまとめて記してありますのでその一部を引用します。

 「長久保道は、清戸道の旧宮田橋付近で北に別れ、富士街道を横切って光が丘南側の道路に出ます。その後、通称オリンピック道路を横断、土支田地蔵を左に見て、バス通りを越え別荘橋で白子川を渡り、そのまま北西、膝折で川越街道と合流します。
 起点となる宮田橋は石神井川の一支流に架かる橋でしたが、この付近は湿地帯のため通行が大変困難でした。そこで、この道を利用する人々が協力して石を敷きました。今もその記念碑が立っていますが、この道を利用したと思われる埼玉方面の村々の名が刻まれています。
 長久保は旧新倉村の字名ですが、明治二十四年大泉村と合併し東京府に編入されました。現在の大泉町8、9丁目付近です。いつ頃から長久保道と呼ばれるようになったかは明かではありませんが、『武蔵国新座郡村誌』(明治八年)橋戸村の項に『北の方下新倉村界あり、来り下土支田村に出る。させる路にあらず』とあるのはこの道のことです。」云々。

 この道を進むと間もなく富士大山道に突き当たり、すぐの道でなく少しずれた道に入って行きます。幼稚園の先に原稲荷があり、その先は区画整理で分かりづらくなっていますが、高松4丁目12番地あたりで光が丘の団地に突き当たります。この辺りで冒頭に述べた古い道のルートと交差しています。このルートは狭いのと切れ切れになのとで見落とされることが多いようです。しかし明治の地図にははっきりした道筋として載っています。また当面の長久保道は元の軍事基地、今の光が丘団地で中断していますが、明治の地図には同じくしっかりとした道で斜め西北に伸びています。
 ちなみに明治の地図の道路標示について述べますと、太い2本の実線で国道などの主要道路、細い2本の実線でその他の主要道路、実線と点線で地方道の主なもの、そして太い実線1本で農道や田舎道、点線1本で畦道などを標示しています。私がしっかりとした道というのは、上記の細い実線2本、あるいは実線と点線で標示された道を云っています。なお前述の清戸道は、明治の地図でそのルートのほとんどの部分は実線と点線で、一部実線1本、点線1本の区間があります。これに対し、長久保道は今述べている区間全部が実線1本、点線1本の道で、私はむしろこのルートの方がいい道ではなかったかと考えているくらいです。


(2) 高松5丁目から長久保まで
 光が丘団地で中断されたこのルートは高松5丁目、笹目通りの交差点で復活しています。笹目通りを越えると高松6丁目。農地が少し残る道を10分程歩くと四つ辻があり角に小さな石の地蔵があります。この地蔵を土支田の地蔵というようです。この先、土支田の交差点でバス通りと交差します。この辺は新興の住宅地で車の往来の多い狭い道に商店が並んでいます。やがて右手は清水山の緑地。道はやや曲がりながらの坂道で、別荘橋で白子川を渡ります。白子川沿いの低地から坂を上ると広い台地でその下を外環状道路が通っています。この辺はつい最近までのんびりとした散策が、あるいはサイクリングが楽しめる道でしたが、今は車の往来が多くいい散歩道とはいえなくなっています。やがて大泉学園町地区になりますが、その最北端が長久保地域です。この長久保は武蔵風土記の新座郡の中に村名、字名など地名として載っていませんが、明治の頃には新座郡新倉村長久保であったようで、明治42年の5万分の1地図には大泉学園地域の北端に長久保の地名があります。現在大泉学園町8丁目、9丁目のあたりです。なお、私が「明治の地図」というのはその前の時代、明治10年代に作成された2万分の1の地図をいいます。これにはこの地域について、下土支田村、橋戸村、新倉新田のほかの地名は載っていません。
 現在大泉学園町8丁目に広い道が、この道筋から分かれており、そこに長久保のバス停があります。長久保の名称が残っているのはこのバス停で、ほかに西長久保、長久保病院前などのバス停です。このほか練馬区など公共施設で長久保の名を冠している例を私は知りません。由緒ある地名は地元の人々にその気がなければ残るべきもありません。道の名として残るほどの地名なので、そこがどういう地域であったのかもっと調べる必要がありますが、今のところその手掛かりなしです。
 長久保バス停から、この道を北上すると自衛隊の基地があります。ここはかって日本の軍事基地そしてアメリカ軍の基地として不可侵の広大な敷地でした。今は自衛隊の基地のほか国や地方団体の各種の施設に使われています。長久保道は、かってこの地域を連続して通過していました。前記の2種の地図によると道はこの先もずっと続いていました。さらに昭和8年発行で前図の修正版を見ますと、大泉学園町の東端から北端に隣接してこの道が描かれており、その先当時の朝霞ゴルフ場の南を通って片山、原谷戸へ抜けています。つまり昭和の始め頃までこのルートは続いていたということです。その後軍事基地の整備拡張で失われたということだと思います。


(3) 長久保道の延長・馬場から野火止を経て下清戸まで
 前述のように基地で分断されているため、これからの区間と長久保道は現在連続していません。都県が違い区市も違うので、これを一体として考える基盤はないようです。これを一体として連続した道筋という説を唱えるのは多分私が初めてでしょう。

 新座市馬場2丁目に荒沢不動尊という小さなお堂、露座の不動尊があります。
この不動尊は屋根掛けを嫌い、かって何度も屋根掛けをして祀ろうとしましたが、必ず火事で焼失してしまうという言い伝えがあり、従って今でもお堂はありますが、本尊の不動尊像はお堂の後ろに露座しているという変わった姿です。この刻文に「水火持戒行者長性院久海 干時延宝二寅年二月二十七日 敬白」とあり、行者久海によって、今から三百三十年ほど前の西暦1673年江戸時代の初期に建立された事が分かります。
ところで、この前を通る道は昔から「江戸道」といわれて来ました。前掲の『新座市文化財マップ』には、荒沢不動尊前を通る道を「江戸往還道」としています。荒沢不動尊から原谷戸を通り、野火止の平林寺の南端に接して通り過ぎ、本田を経て清瀬市に達するほぼ直線のルートを記載しています。
 この付近の地域は江戸時代原ケ谷戸村といいました。この地域には新座市指定歴史資料『旧原ケ谷戸村名主文書』が残っています。それに村絵図があり、この村の当時の様子、道路状況などが示されています。ここに村を貫く一本の道路が描かれており、「江戸往還」と記されています。この絵図は天保七年七月のもので、西暦1836年、江戸時代の終わりの頃です。つまりこの頃からこの道があり江戸への重要なルートとして江戸往還と呼ばれていたということがわかります。
 荒沢不動尊から東へはほぼ直線で延び、黒目川の土手で終わっています。その先黒目川を渡った先はどうかということを新座市の担当者に尋ねましたところ、調査していないのでわからないが、縄文時代の遺跡鐙田遺跡の付近を通り川越街道の方へ抜けていたのではないかということでした。つまり連続した道筋として捉えていないということです。
 これを明治の2種の地図、昭和初年の修正地図で検討してみます。前述のように長久保から道は続き、黒目川のところで大きく湾曲して原谷戸に達しています。その先は、文化財マップの江戸往還道と重なり、清瀬市に入って下清戸で志木街道に合流しています。黒目川は現在改修されて氾濫はないようですが、かっては他の河川同様かなりの暴れ川で乱流もあったようです。従ってこの道が黒目川の所で大きく湾曲していたのは、越しやすい地点を選んで越していたものと考えられます。
 現在このルートを歩こうとすると、新座市馬場2丁目荒沢不動尊のある所が出発点になります。長久保がある大泉学園町8丁目からここまで直接の道はないので、西武池袋線大泉学園駅からバスで新座技術高校前まで来て、市場坂を迂回して下り、馬場の集落を北上することになります。この間約1.6キロ、歩行約30分です。
 荒沢不動尊から原谷戸、野火止平林寺南端沿いの陣屋通り、野火止用水を伊豆殿橋で渡って行く現在の道は、まわりの風景は若干変わっていても古い地図に描かれた通りで、清瀬市に入って両側に植え込みのある狭い道になり、下清戸で志木街道に達しています。この区間ほぼ直線です。

 この道を連続したルートとして捉えると幾つかの特徴が見いだせます。
 一つは、富士大山街道を越えてから長久保までほぼ直線だということ。またその先の私が延長区間だとしている江戸往還の区間もまた直線であることです。これは大きな特徴といえます。直線道路は古代官道に多く、また中世の軍事道路は概ね直線であることが多いようです。
 二つ目にこの道が達した下清戸のすぐ北側に別稿で述べた小田原北条氏の拠点であった清戸下宿(清戸番所があった。)そして滝の城山(所沢市城)があることです。これを考慮すると中世末期、清戸下宿と江戸を結ぶ軍事ルートであったことも考えられます。ただ江戸が太田道灌時代以後、小田原北条氏時代にどれほどの重要性があったか定かではありません。
 以上の検討で、長久保道は清戸道の枝道というより、清戸道と同じ程度かそれ以上の役割を果たしていたルートであった可能性があります。

 

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