(第5)練馬の道・清戸道

(1) 練馬の道について
(2) 清戸道
(3) 江戸川橋から目白駅まで
(4) 目白駅から練馬駅まで
(5) 練馬駅から谷原交差点まで
(6) 谷原交差点から大泉学園駅まで
(7) 大泉学園駅から堤稲荷前の二股まで
(8) 堤稲荷より馬喰橋を越え下清戸の志木街道まで
(9) 堤稲荷から野寺、栗原を経て上清戸へ


(1) 練馬の道について

 東京二十三区の中で最も西北部にある練馬区は、土地の歴史も古く近年の目覚ましい発展のうちにも、かっての田園風景の残っている所が各所にあり、古い雰囲気を感じることができる地域です。この練馬地域を走る古い道はかって人々がそれを利用し生活して来たいわば文化遺産の一つです。
 練馬区を通過する古い道で主なものに川越街道、青梅街道があります。これらは現在都市間を結ぶ主要道として通行量も多い道ですが、昔もいわば脇往還として東海道や中山道などの道中奉行に管理されていた五街道に準ずる、重要なルートでした。これらは練馬区の北端或いは西南部をかすめるように通過しています。

 練馬地域をほぼ南北に縦断しているのが、別稿で取り上げた「阿佐ケ谷道」です。この一部は溯ると中世の鎌倉道のルートとも考えられる道であり、地元で「下練馬道」といわれて来た道筋とも重なっています。
 また練馬区の東北端北町1丁目から西南端の関町5丁目まで、若干の屈折はありますが、ほぼ斜め直線に練馬地域を横断する「富士街道」があります。このルートはさらに西南へ田無を経て南下し、調布の西で甲州道中を横切り多磨丘陵を越えて小野路で矢倉沢往還、大山街道に合流して大山へ至っていたといわれています。近世大山詣で、あるいは富士詣でが庶民の間で盛んに行われましたが、江戸の北郊外、武蔵の北部(現在の板橋区、北区、埼玉県中央部)から大山へ行く人々のルートとして利用されたのがこのルートです。そこで「大山道」あるいは「ふぢ大山道」と呼ばれて来ました。またこのルートはほぼ直線の区間が多いので、棒道、一種の軍事道路であったとも思われ、起源は古そうです。
 起源がもっと古そうだと思われる道筋に、今は殆ど分断され切れ切れにしか残っていないルートがあります。それは西武新宿線井荻駅付近から環状8号道路と重なり、高野台1丁目の氷川神社の北から斜めに別れ、新目白通を体育館の西で横切りその先で途切れ田柄4丁目で復活し板橋区赤塚1丁目に至るもので、途中幾つも分断されていますが、中世の鎌倉街道の残滓だと思われます。
 このほか、旧早稲田通、長命寺道、清戸道などがあります。旧早稲田通はもと「所沢道」と呼ばれていた道で、中野村の追分(現在の地下鉄新中野駅付近)で青梅街道から北西に別れ、上沼袋村(現在の中野区大和町)で上落合村(現在の新宿区上落合)から来た道と合流し、西武新宿線下井草駅付近を経てその先八成橋付近で練馬区、旧下石神井村に入り石神井池の南を通って保谷に至り、所沢方面に向かう道で「石神井道」とも「秩父往還」とも呼ばれて来た古い道です。これは別に取り上げるつもりです。長命寺道は高野台3丁目にある古い大きな寺、長命寺への参詣道で幾つかの道筋があったようです。そのうち貫井4丁目の練馬2小前交差点で旧清戸道、今の目白通から別れて行く道が主なものです。
 さて、ここでは最後に出た「清戸道」を取り上げます。それは「古道」というには、やや新しいのですが、汽車や自動車のなかった時代に、人々が作り利用して来た道で今なお残っている道という視点でとらえれば、「身近な古道」として取り上げる価値が十分あると思います。練馬地域はその奥の西東京、北多摩北部、新座の地域とともにかっては江戸、東京へ野菜などの農産品、薪炭などの燃料を供給してその膨大な消費を支える後背地でした。これらの農産品、薪炭などを運んだルートの一つがこの「清戸道」です。


(2)
清戸道
 文献に「清戸道」という名が出てくるのは明治になってからです。明治18年(1885)7月の『渡辺府知事管内巡回記』が初出でしかも極めて重要な道として記録されているといわれます。と云っても、その時はじめて清戸道ができた訳ではありません。前述のように江戸時代から既にあり、練馬の地域あるいはその奥の地域から江戸へ往来する道として利用されて来た道でした。
 江戸幕府編纂になる文政11年(1828)成立の『新編武蔵風土記稿』(以下「風土記」という)という地誌には村々を通過する道についてかなり詳細な記事があります。例えば、多摩郡下井草村(現在の杉並区下井草)の項に、「青梅村への街道村の西南に少しかかれり。上井草村より入り天沼村に達す。また東北の界に所沢への道あり。豊島郡下石神井村より当郡中野村に達す。」とあるように、注目すべき道筋にはかなり詳細な記事を載せています。なおこの記事のうち後者の東北の界に所沢への道というのは前述の「石神井道」に該当するものと思われます。
 この書物に「清戸道」の名称こそ載っていませんが、その道筋らしい道についての記事があります。風土記の各郡のはじめに郡の地図が載っていますが、豊島郡の正保年中改定図(1644〜1648)に、高田馬場(現在の新宿区西早稲田)で神田川を渡り下高田村から雑司ケ谷で分岐し葛が谷村に至る道筋が描かれています。この葛が谷村は現在の新宿区西落合1丁目から4丁目、及び中落合3丁目から4丁目にまたがる地域です。そこは現在の豊島区南長崎1丁目から6丁目および目白5丁目に隣接しており、その境界線またはその近くを今の目白通り、つまり旧清戸道が走っているのです。正保というのは徳川家光の晩年の頃に当たり江戸時代の初期です。この頃既にこの道があったと考えられます。

以下煩瑣ですが、風土記から関連する記事を拾ってみます。
◆下高田村(現在の豊島区高田1丁目〜3丁目)
「村の北寄りに目白辺より練馬辺への往還かかれり。」
◆長崎村(現在の豊島区南長崎1〜6丁目、長崎1〜6丁目)
「雑司ケ谷村より練馬村に通ずる往来あり。」
◆中荒井村(現在の練馬区豊玉上、豊玉北、豊玉中、豊玉南、)
「北の方練馬村堺に河越道かかれり。」(注1)
◆上練馬村(現在の練馬区向山、貫井、高松、田柄、春日町)
「当村に多摩郡青梅への間道かかれり。」(注2)

 なお、現在清戸道が通過している練馬区の次の地域については、風土記にこの道に関する記事がありません。(『風土記』第1巻、第7巻より、)
谷原村(現在の練馬区谷原、高野台、富士見台)
土支田村(現在の練馬区土支田、旭町、光が丘、東大泉)
橋戸村(現在の埼玉県和光市白子1〜2丁目?『風土記』第7巻より、)
    (現在の練馬区北大泉町『練馬区の歴史』より、)(注3)
小榑村コグレムラ(練馬区大泉学園町、南大泉町、西大泉町)

(注1)河越道というのは理解しがたい。多分清戸道の誤記であろうと思われる。
(注2)ここでいう間道は清戸道と思われる。
(注3)橋戸村は現在、練馬区の大泉地域の一部である。風土記巻末の対照表が和光市白子としているのは間違いだと思われるが一応その説を記載する。
(注4)練馬区の旧村名と現在の町名対比には、『風土記』各巻末の新旧地名対照表のほか、『練馬区の歴史』の旧村小字名一覧を使用した。

 道の名称については、種々の付け方がありますが。目的地で付けることが多いようです。例えば「江戸道」「京みち」「日光道中」など。通過する地方名を付ける場合もあります。例えば「山陽道」「木曽街道」など。欧米では偉人や著名人の名を冠する例がありますが、日本ではあまり見かけません。日本では神社、仏閣や有名な施設の名を付ける場合がよくあります。「観音道」「地蔵通り」「神宮通り」など。
 「清戸道」は目的地で付けられた例だと思います。大正6年(1917)の『下練馬郷土誌』には、「清戸道は本村の南部、千川水道に沿える道路にして、東京市小石川区より高田村、長崎村、上板橋村を経て本村と中新井村との境を過ぎて上練馬、石神井、大泉の各村をへて埼玉県清戸に至る。道の巾四間、村内を通過すること七町半なり。」と出ています。
 清戸道の名称の由来はこれではっきりしますが、同時にそのルートも示されています。以下このルートをここでいう小石川区、現在の文京区の江戸川橋付近を出発点にして清戸までたどることにします。なお、ここで埼玉県清戸と記していますが、現在は東京都清瀬市です。

 この清戸道について文献の調査及び実地検分を行った資料に『練馬の道』(石神井図書館編、昭和49年3月20日発行)があります。私の清戸道についての所見と記述内容の一部はこれによっている所があることをお断りしたいと思います。


(3) 江戸川橋から目白駅まで

 清戸道の出発点は江戸川橋です。地下鉄江戸川橋駅を降り階段を上がると江戸川橋があります。下には神田川が流れています。橋を渡り最初の角を左折します。高速道路の下をくぐると坂道です。進むにつれだんだん急峻になって行きますが、目白坂といわれ人々がここを越すのに大変な苦労をした坂道です。今は舗装され坂も緩やかにされたらしくそんなシンドイ思いもしないうちに上りきります。右手に大泉寺、永泉寺、養国寺の三つの寺が並んでいますが、その上に正八幡神社があります。この南側にかって新長谷寺、目白不動がありました。明治の地図を見ますと坂の左側にかなりの建物として載っています。戦災で焼失したため廃絶し、戦後不動様は近くの豊島区高田2丁目の金乗院に移されています。この目白不動があったため、この坂を目白坂と呼んだのです。
 坂を上り切った所、左側にあるのが椿山荘です。今はホテルになっていますが、その宏大な敷地はもと山形有朋の邸宅であった所で、江戸時代から明治にかけてこのあたり一帯は椿の名所で椿山といわれていました。その先日本女子大の三差路で右から護国寺よりの道を併せ、豊島区に入ります。このへんは閑静で緑多く歩道も完備していて歩くには気持ちのよい区間です。

 この三差路からおよそ三〇〇メートルほど行くと十字路があります。この角を右へ行くと鬼子母神ですが、左へ行くと宿坂という急坂を下って行く道で、先に述べた金乗院の横を通り、面影橋で神田川を渡り西早稲田に出ます。この道は古くから「鎌倉みち」といわれて来た道筋です。この道筋についての詳細は拙著『中世を歩く』を参照してください。 この十字路を過ぎると間もなく千歳橋です。この下には都内で唯一残った都電と明治道路が走っています。このあたりの景観もまたよい。やがて左側に学習院の緑のキャンパスが続き、それが終わると目白の駅です。


(4) 目白駅から練馬駅まで
 JR山手線の目白駅のあたりは現在は目白1丁目から3丁目の地域です。この目白という町名は、昭和7年に東京市域の拡大に伴い豊島区が成立した時にできたものです。山手線を跨ぐように交差する道が現在の目白通りで、それはもともと目白不動があったことから目白坂という名前ができ、そこを通る道筋が目白通りという名になったという由来は前に述べました。現在はこの辺りの目白と、先に通過した三差路から東、文京区に目白台という地名が残っています。

 今回はこの目白通りを目白駅から西へ行きます。この道は昭和初期にできた趣のある並木の広い道で、今でもその趣が残っています。環状6号道路、山手通りを越ししばらく行くと二股があります。その二股の右側への道が旧道です。狭い道ですがほぼ直線で延びています。南長崎4丁目に郵便局がありますが、その前に大木のある屋敷と商家造りの建物があります。江戸時代から明治時代にかけて繁盛した岩崎家です。やがて練馬区になりますが、その境付近に十字路があります。ここへ右手から直角に合流してくるのが、千川通りです。かってはそれに沿って千川上水が流れていました。昭和の中期に埋められ道路になったのです。千川上水はここで直角に曲がり西進していましたので、目白通りも千川上水沿いに西進して行きました。現在は千川上水が埋められ道路になりましたので、その分道幅はかなり広くなっています。そこで今はこのへんの道を千川通りと呼んでいます。やがて江古田の二股で、現在は五差路になっています。目白通りはここを左へ行きますが、右へ行く道も明治の地図で見ると同じような太い道で現在の氷川台を経て北町で川越街道に合する道でした。この道は現在もあり別に触れる機会があると思います。

 江古田の二股を過ぎ少し行くと左手が武蔵大学のキャンパスです。その先で環状7号道路をくぐると桜台の地域です。かって千川の土手に多くの桜が植えられ見事な花を咲かせた地域ですが、今は名のみとなっています。花はむしろこの先中村橋駅付近がすばらしい。やがて練馬の駅になります。


(5) 練馬駅から谷原交差点まで
 練馬駅を降り、ビルだらけ、車だらけの道を西へ行きます。間もなく交差点があります。ここはX状に二本の大きい道が交差しています。真っすぐに行くのが千川通り、右へ曲がると目白通りの延長です。現在この付近は鉄道高架複々線工事とこれに伴う道路の大改造工事の最中です。平成13年3月今まで西武池袋線の線路を跨いでいた中村陸橋が廃され、逆に高架になった鉄道の下を通るという、逆高架工事が行われました。一夜にして道路と鉄道を逆転させるという迫力のある工事でした。
 ところで、西武池袋線は大正4年4月に池袋、飯能間の武蔵野鉄道として開業しました。5万分の1地図東京西北部の旧版を見ますと目白通り、つまり清戸道はこの付近よりかなり手前に踏切があり西武線と斜めに交差しています。そしてもう一つ踏切があり、それは鉄道とほぼ直角に交差し、この清戸道ともここで直角に交わっています。その道は別稿で述べた「阿佐ケ谷道」(仮称)で阿佐ケ谷方面からここ経て、豊島園付近を通り赤塚、上板橋方面に至るルートです。古い道で鎌倉みちとも云われて来た道ですが、詳しくは別稿を参照して下さい。

 ここから信号を二つほど越すと二股があります。新旧目白通りの分岐点です。右手の旧道に入ります。旧道に入ってすぐ左へ行く細道がありますが、それが旧清戸道です。その細道に入ると右手に小高い丘がありその上に須賀神社が祀られています。その前に「清戸道」の説明板が立っています。このへんはほんの短い間ですが古い感じがのこっています。間もなく目白通りの新道に合し、以前あった小川にかかっていた子津橋の跡を過ぎると、子の権現、円光院の参道です。小さな寺ですが昔は遠くから参詣する人々が多かったらしく、この寺への参詣道が権現道と呼ばれていたくらいでした。その権現道はここから中村橋付近を経て中村3丁目の八幡前で前記の阿佐ケ谷道に合流していました。
 またすぐに二小前の交差点になりますが、この西北角に大きな石の道標が立っています。それには「東高野山道」と刻まれています。東高野山というのはこの先の長命寺のことで、前に述べたように、この付近には幾つかの長命寺道がありその一つがここから出ているのです。
 この角に入りすぐ左折します。以前は細い急な坂道でしたが今は舗装され坂も緩やかになっています。降り切った所で右からバス道を併せ、石神井川を渡ります。ここの橋には道楽橋という変わった名が付いています。そこから200メートルほど行くと信号のある十字路があります。この角に石造の敷石供養碑が立っています。このあたりは昔石神井川の氾濫原で、石神井川は多くの細流に別れて流れ辺りは湿原のようでした。その細流の一つにかかっていたのがこの付近にあった宮田橋です。このあたりのひどいぬかるみの道に敷石を敷き通りやすくした時宮田橋の袂に立てられたのがこの石塔です。この石塔には敷石の事業に関係した人々と所属の村の名が刻まれています。その数は40近くに及び、谷原、石神井、土支田などこの近在の村々はもちろん遠く清戸道の終点である上清戸、中清戸をはじめ野塩、下秋津、上秋津、さらにその先所沢付近の安松などの村名が見られます。この石碑と並んでもう1基石塔が立っています。それは庚申塔で当地下石神井村高松の26人の人々によって立てられたものです。建造の歳月は正徳5年といいますから西暦1715年、徳川家継の頃、江戸時代の中頃です。前記の供養碑には築造年月が刻まれていませんが、この庚申塔とほぼ同じころの造立と考えられています。
 ということは、この清戸道が江戸時代中頃に既にあり、近在はもちろん奥の清戸、秋津、安松などの遠方の村々から江戸への重要な交通路として盛んに利用されていたことを物語っています。
 この十字路のすぐそばで右へ上って行く道が分かれています。その脇は現在環状8号道路の新設工事中ですが、高松八幡、若宮から土支田、長久保方面へ向かう道で「長久保道」とも呼ばれて来ました。この道については後で述べます。
 この先、環状8号道路の新設工事場を過ぎ、左への細道をたどって行きます。丘際の道で少し屈折のある道ですが墓地の先稲荷を過ぎてから右折して行き、やや上り坂を上り切ると前に分かれたバス通りに突き当たります。このバス通りはこの区間新設された道です。バスはこの先の十字路で左へ折れて行きますが、清戸道は左手ガスタンクを見ながら真っすぐに行きます。ゆるい坂を下りやがて広い目白通りに合流します。合流した地点に練馬区の体育館がありますが、その前に清戸道の説明板が立っています。ここはまた四辻になっていて細い道が大通りを南北に交差しています。この細道が前述の古道の残滓です。四面道、井荻のあたりから環状8号道路に縫うように北上して来た道で、この先は切れ切れですが赤塚まで続きます。このルートについては別に触れる機会があると思います。
 体育館の先はすぐ谷原交差点です。今来た目白通りと笹目通り(環状8号道路の延長)が交差する大きな交差点で、ここへはさらに富士街道(ふじ大山道)が斜めに交差しています。この道筋も古い道で別稿で取り上げるつもりです。


(6) 谷原交差点から大泉学園駅まで

 谷原交差点は横断歩道橋で越します。広い道の北側歩道を行くうち谷原小学校が右手にありますが、その前の横断歩道を渡り旧道に入って行きます。旧道はここで広い道から左斜めに分かれて行きます。この道は車の通行量に比べて狭い道なので歩くのには快適ではありませんが、一部に農地が残っていたり樹木も繁る所もあって、田園風景も所々に窺える道筋といえます。
 しばらく行くと社会保険事務所の建物がありますが、そこを右へ100メートルほど入ると稲荷神社があります。もと下石神井村の鎮守で明治の地図にも載っていますが、今は住宅の中の小さな神社です。また、ここを左(南)へ入ると300メートルほどで緑の社叢のある石神井神社があります。風土記の豊島郡下石神井村の項に、「この村の名の因って起こりし社なり。神体はすなわち上石神井村三宝寺池より出現せし石剣なり。」とあり、その事は上石神井村の所でも説明している神社です。(風土記、第1巻、p274.)
 もとの道に戻り、西進する。撮影所の交差点を過ぎると右手に妙延寺がある。日蓮宗のお寺で、寺伝によると永禄十一年(1568)に日宜上人によって開かれたという江戸時代以前からあった寺です。境内には題目供養塔や、庚申塔、馬頭観音、地蔵尊など、数多くの石造物があります。この先に交差点がありますが、左へ行けば大泉学園の駅です。


(7) 大泉学園駅から堤稲荷前の二股まで
 大泉学園駅前付近は、現在大規模な区画整理や道路工事が行われています。以前とかなり町並みの様子が変わりつつありますが、駅を降り前述の交差点に出て清戸道をいきます。すぐに大泉小学校があり、そこから道が分かれて行きます。それが清戸道の旧道です。清戸道の旧道にはここを真っすぐに行き、この先の妙福寺の付近を通っていたとする説もありますが、後に述べる本照寺のある中島のあたりは、かって小榑村の中心であったことを思うとこのルートが旧道であったと考えた方がよさそうです。
 さて、しばらく歩いて白子川を中島橋で渡り、丁字路を左折します。右手に前記の本照寺という日蓮宗の寺があります。天正十年(1582)の開基といわれています。このへんは、かって小榑村といわれていた地域でその村役場が一時この寺におかれていたこともありました。寺を過ぎ四辻を右折すると右手に諏訪神社があります。この神社は江戸時代には風土記に記されているように、三十番神と呼ばれ、村の鎮守で本照寺のすぐ背後にありました(『風土記』第7巻、p111.)
 明治になって神仏分離の際に、信州諏訪神社から祭神武御名方命を勧請して諏訪神社と名を改めたもので、同じころ社殿もここに移ったものです。三十番神というのは今ではこの諏訪神社とか神明社など社名が変わっていますすので、聞き馴れない神名になっていますが、この地域にはかって多く分布していた神名です。その由来を解説する能力も余裕もありませんが、『神道大辞典』(p630.)によると、天台宗の法華経尊重の風習に発し、結番して常時守護する三十神祇で、法華三十番神、或いは三十番神、略して番神とも称せられるという。鎌倉時代以後法華経を根本法典とする日蓮宗にも三十番神が採用され、さらに吉田神道によってひろめられたという。この付近一帯には日蓮宗の信仰が浸透していたので、それに伴い三十番神が多く祀られたものと思われます。
 この道は西大泉二丁目と三丁目の境界線になっていますが、さらに北上すると、左手に稲荷神社があります。この辺の地名をといって「堤稲荷」とも「四面塔稲荷」とも呼ばれています。四面塔とはかってここにあった石造四面の題目塔のことです。神社の所で道は二股に分かれます。真っすぐに行く道が清戸道の旧道ですが、左折して行く道も清戸道だという説もあります。もともと「清戸道」という名称も俗称であって正式な道路名ではないので、黒白を付けるというほどのことではありませんが、一応ここでは、真っすぐに行く道を、清戸道の第1ルートとし、左折して行く道を清戸道の第2ルートとしておきます。


(8) 堤稲荷より馬喰橋を越え下清戸の志木街道まで

 堤稲荷の二股から道は改良された広い舗装されたいい道で、くの字なりに曲がって行きますが、明治の地図を見ると細い点線のか細い道です。やがて片山2丁目の交差点です。ここに庚申塔があります。正面に青面金剛像、右側に奉造立庚申供養、新座郡片山内、左側に元文四巳天十一月廿三日(1739)、瀧嶋清兵衛と刻んでありますが、道標のような字は見えません。この石塔から見て、他所から移設したものでないとすれば、この道は元文の頃、18世紀始めより以前からあった道であると考えても良さそうです。またここを横切る道は武野通りと呼ばれて居ますが、それはここから西へ1キロほど行けば武野神社(たけしのじんじゃ)があるからです。この神社はもと八幡社で、いくつかの神社を合祀して社名が変わったもので、風土記にも記載のある由緒のある神社です。その前に行福寺という古い寺があります。これは中世の旅僧で歌人である道興准后の『廻国雑記』に出て来る「野寺」だといわれています。風土記にも詳しく記事が載っています。このことからもこの十字路はかなり古くからあったといえそうです。
 ところで、この先は実ははっきりしません。現在の道はなお真っすぐに続いて行きますが、古い道筋を踏襲したものであるかどうかは分かりません。むしろ新道である可能性が大きいのです。特にいなげやがある角あたりから先の道は新道のようで、明治の地図に載っていません。このいなげやの角を左折して行く道が古いルートのようで、農村風景の残って居る所に新しい家々が侵入して来たような感じの道をしばらく歩き、林を抜け小川を越えて行くと、歴史民俗資料館があります。そのそばから細い道が延びて居ます。
 この細い道のここからが、清戸道の旧道が残ったものと思われます。この細い道は200メートルくらいで県道に突き当たります。すぐにあるのが道場のバス停で、県道を越え細い道が斜めに延び、黒目川の土手まで続きます。この川を渡るのが馬喰橋でこの先の道を馬喰橋通りというようです。道は田圃の中を過ぎやや急な坂を上って行きます。この坂を堂坂といいます。坂を上ってしばらく行き石神小学校の前を過ぎると氷川神社があります。西堀地区の鎮守です。このあたりはまだ農村地帯の趣が畠とともに若干残って居ます。道はこの先御成通りに突き当たり、ここで御成通りを右折します。野火止用水を御成橋で渡り細い道を北上します。
 さてここに新座市発行の新座市文化財マップがあります。この図は市域の古い道を調べて、古い道筋を現在の地図上にトレースしており、清戸道の旧道について以上たどって来た歴史民俗資料館からここまでのルートを記載して居ます。このルートが恐らく清戸道の旧道だと思われます。
 新興住宅地を抜けると、林そして畑地、この間が埼玉県と東京都の境で新座市から清瀬市に入り、そして志木街道の下清戸に至っています。ここからさらに北上すると、中世末期小田原北条氏の拠点清戸番所があった清戸下宿(したじゅく)そして柳瀬川を越えると滝の城山があります。このことから考えると、近世以降の農民の道であった清戸道のこのルートは、後北条氏時代、中世末期まで溯る清戸下宿、城山と江戸を結ぶ道であった可能性もあります。


(9) 堤稲荷から野寺、栗原を経て上清戸へ

 清戸道の第2ルートとした堤稲荷前の二又を左折して行く道を行くことにします。この道は最近改良され広いいい道になりました。道を境に西大泉5丁目と6丁目になっています。しばらく行くと西東京市、そして間もなく埼玉県新座市野寺で、左手に野寺小学校があります。この先を右折して行くと、先に紹介した野寺、満行寺と武野神社があります。 そこへ寄り道することにします。狭い道ですが道なりに行き、坂を下りると寺が見えて来ます。京都聖護院門跡であった道興准后は文明十八年六月下旬(1486)北征東行を思い立ち京都を立って北陸路を廻り、同年七月に坂東上野に来て居ます。その後、坂東各地を廻り、歌を交えた紀行文を書いて居ます。それが『廻国雑記』です。それに次のように記述されています。
「野寺といへる所ここにも侍り、これも鐘の名所なりといふ。この鐘、いにしへ国の乱れによりて、土の底に埋みけるとなん、そのまま掘り出さざりければ、
音に聞く野寺を問へば跡ふりて こたふる鐘もなき夕べかな
このあたりに野火留の塚といふ塚ありけり、けふはな焼きそと詠ぜしによりて、烽火たちまちに焼止りけりとなむ。」云々。これは在原業平の作とされている歌があり、
「武蔵野の野寺の鐘の声聞けば 遠近(おちこち)人ぞ道いそぐらん」
の歌を意識して居たものと思われます。また、野火止については、伊勢物語にその物語が述べられており、 「武蔵野はけふはな焼きそ 若草のつまもこもれり我もこもれり」の歌が載って居ます。 現在のこの寺は真言宗智山派の寺院で、風土記に、「野寺村 満行寺境内三町 本尊不動明王立像 豊島郡石神井村三宝寺末寺なり。野寺山弥陀院滝本坊と号す。開山は詳らかならざれど、古き蘭若にて古歌に武蔵野の野寺の鐘などと寺伝に云えり」と記されています。
 この前の道を隔てて丘の上にあるのが武野神社(たけしのじんじゃ)で、明治四十一年に、栗原村の浅間社、石神村の氷川社など近郷の五社を、野寺村の八幡社と合祀して造られた神社です。武野神社のあるこの地は古くは誉田別命を祭神とする八幡社の社地でした。八幡社の創建年代は不祥ですが、前掲の風土記によると、社殿の修復を平安時代の康平六年(1063)におこなったと記しています。また源義家が奥州遠征の途中、この八幡社に立ち寄り戦勝を祈願したと伝え、その際に社殿を再造して北向きに建てたとも伝えています。
 現在、社殿の東側に安置されている旧八幡社の本殿は、寛永年間の建立と伝えています。 なお、清戸道がこの地を通過していたことは確実だと思われます。先に通った高松の宮田橋跡に敷石供養塔がありますが、その供養塔の村名の刻字の中に上栗原、野寺村、の地名が見られるからです。あるいはこの寺の前の道が清戸道であったかも知れません。

 元の道に戻り先へ行きます。道はやや下り坂。栗原の交差点があり右手に小学校があります。くの字に二度曲がり狭い道を下って行くと突き当たり丁字路になっています。そこに小さな石塔が三基並んで立って居ます。石塔の刻字は分かりません。道標のような感じのものもありますが定かではありません。ここへ左方から来る道は別項「石神井道・所沢道」(仮称)で述べますが、中野追分で青梅街道から分かれ、石神井、保谷を経て来た道で所沢へ向かうルートです。清戸道の第2ルートはここでその所沢道に合流して居たものと思われます。
 小さな小川を越えると改修された黒目川で神宝大橋を渡ります。橋を渡ってすぐ左折。くねくね曲がる道を道なりに行きます。神山1丁目の角を右折。細い道で両側は新しい住宅です。道は緩い上り坂になります。この坂の途中に丁字路があります。真っすぐ行く道は住宅地を抜け畑の中を過ぎ野火止用水を越えて中清戸に達しています。清戸道の枝道の一つであったと思われます。
 この丁字路を左折します。細いが緑のあるいい道です。1キロほど歩くと二又があります。現在新堀小学校への道ができましたので、四辻になっています。建物で目立たなくなっていますが、この角に大きな石の地蔵が立っています。台座に刻字されている字はよく読めませんが、道しるべのようです。『練馬の道』(石神井図書館編、昭和49年発行)には、「台は二段になっていて、中の台座正面に三界万霊等、右には武州新座郡西堀村同八軒、願主小糸清兵衛、施主惣村中とあり、左に宝暦五乙寅年(1755)十月二十四日と刻まれている。下の台座は道しるべになっていて、右きよとかわごえ道、南江戸道、左ところ沢ちゝ婦道と示されている。」と記されています。このことから、この道標が一方は江戸への道であり、他方真っすぐ行く道が清戸への道、そして左への道が所沢、秩父への道であったことを示しています。このきよと道とはっきり刻まれている道しるべは珍しい。
 真っすぐな道を行くと1キロ足らずで志木街道の中清戸1丁目と上清戸2丁目の境に至ります。そのすぐ近くに水天宮があり、日枝神社と御獄神社が同所に祀られています。この神社は由緒が古く、日枝神社は天正七年(1579年)の創建といいますから中世末期小田原北条氏の頃です。また寛延四年(1579)の供養塔をはじめ、門前に安永四乙未(1775)の庚申塔が並んでおり、中世末期から近世のはじめには既にあったことがわかります。前掲書にはこの道について「この道標にしたがって右方(東北方)の道を辿る。車で僅か七〜八分で志木道に突き当たる。上清戸二丁目である。ここが志木道から江戸への分岐点であるのに、それを示す道標はない。土地の人に尋ねても「江戸道」又は「清戸道」を知っている者は誰もいない。」と疑問を投げかけています。
 さてここから左方への道を行くことにします。そしてすぐ右折すると清瀬市になり、この辺は都市化がかなり進んでいますが、まだ古い道が若干残っています。くの字なりに曲がる道を道なりに進み、元町1丁目の駅前通りの広い道を越すと間もなく広い道にぶつかります。ここは変則の六差路になっていて、これを南北に横切る道が小金井街道でこの地域の主要道であるだけでなく昔からの古い道です。これに入ってすぐ清瀬郵便局の十字路です。ここに前記の志木街道が交差しています。右へ行けば、上清戸、中清戸、下清戸そして清戸下宿、さらに大和田から引又といわれた志木に達しています。左は野塩から秋津、そして東村山の久米川に達し府中街道に合流しています。前掲の宮田橋の橋供養塔に刻まれた村名の中に、この野塩村、下秋津、上秋津の名があります。またこのほかに中安松の名もありますが、これは現在所沢市下安松、上安松の地域に当たり、この小金井街道の延長、所沢、秩父道を北へたどった先にあります。
 ここは多分清戸道の終点ではなかったかと思えるのですが、前記の石神井道から所沢道、秩父道に変わったルートに途中で吸収されていたことも考えられます。以上で清戸道の全コースをたどったことになります。
 なおこの所沢道、小金井街道については別に取り上げる予定です。

 

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