(4)阿佐ヶ谷駅から大宮八幡まで

これまで仮称阿佐ヶ谷道を北へたどり埼玉県境まで行きましたので、今回から南方へ行くことにします。 阿佐ヶ谷駅を降りると駅前ガードの下をくぐる広い道がありますが、それとx状に交差している道があります。それが古道で前回まで北側の道を行きました。今回は南へ行きます。その道は活気のある商店街になっています。夏には七夕の飾り付けが毎年行われています。しばらく行くと道は二股に分かれますが、左の方へ行きます。5分ほど行くと青梅街道にあたります。信号で向こう側に渡るとすぐ細道があります.それに入り、すぐ左折します。真っ直ぐ行く道も古い道のようですが、それは海雲寺の横を通り五日市街道を越えて行く道で、その先白山神社の前から坂を下って善福寺川を渡り、大宮八幡の森の西側、高千穂商大の所で人見街道に合しています。細いがほぼ真っ直ぐな道で古くからありそうですが、明治の地図では途中白山神社の先は途切れています。従って明治から昭和の初期まではなかった道だと思われます。しかしだからといって古道のルートではなかったとも断定はできません。これは目下私の懸案事項の一つです。 左折していく道は各種の文献資料に、「鎌倉道」とか「下総街道」として古道とされているルートです。例えば、杉並郷土史会著「杉並区の歴史」には、下総街道或いは大宮街道ともいうとしてそのルート図を載せています。そのルートは私が「仮称阿佐ヶ谷道」としたものとほぼ一致しています。この道は梅里2丁目と成田東4丁目及び3丁目の境界線になっています。五日市街道を越すと左側は松ノ木3丁目です。五日市街道から20分ほど行くと右手に松ノ木中学校がありますが、そのあたり一帯が松ノ木遺跡で、縄文、弥生、古墳時代の遺物や住居跡などが発見されています。坂を下って宮下橋で善福寺川を渡り、上り坂を上りきると、大宮八幡の東鳥居の所に出ます。
この鳥居をくぐると長い参道で両側は大木の並木になっています。その参道の続きのような道が東へ延びていますが、その中間右手に「鞍掛の松」がありました。伝説では八幡太郎義家が奥州侵攻の時この地を通りこの松に鞍を置いたので名付けられたといいいます。この東へ延びる道も古道で、杉並区と中野区境の十貫坂から鍋屋横町を経て古代豊島郡家があったとされる平塚、或いは平安時代初期から繁栄していたといわれる鳥越浅草へ通じていたルートです。
大宮八幡宮は旧和田村{現在の杉並区和田、方南、大宮、松ノ木}の鎮守で、由緒は古く、康平6年{1063}源頼義が兵を奥州へ進め、凱旋した時京の石清水八幡宮の分霊を勧請したといわれています。鎌倉時代には幕府から毎年奉幣使が派遣されていました。江戸時代には徳川氏より30石の朱印状が寄進され篤く尊崇されていました。その頃多摩郡の大宮といわれ、足立郡の大宮{現在のさいたま市}秩父郡の秩父神社とともに武蔵の国の三大宮と呼ばれていました。江戸時代には境内地は6万坪もありましたが、明治以後減らされ現在は1万3000坪になっています。それでも都内では明治神宮、靖国神社に次いで3位の広さです。そして近くの公園とともに広大な緑地をなしています。
本殿を前にして左へ行くと西の鳥居があります。そこを横切る道があり、これも古い道で一説では鎌倉街道といわれます。拡幅され広い道になっていますが、真っ直ぐ行くと井の頭通りの先西永福駅に出ます。その先は鎌倉橋を経て調布、府中に至っていました。またこの道から分かれていく道があり、それも古道です。人見街道に続き久我山から府中へ行くルートです。この二つのルートについては後で歩く予定です。
なお、交通の便は、この大宮八幡の前からバスの便もありますが、前記の西永福駅{井の頭線}まで古道の跡の道を歩くことをお勧めします。(付属別掲地図)

(図1)阿佐ヶ谷道1
 
(図2)阿佐ヶ谷道2と鎌倉橋

 

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