(3)豊島園から本寿院、松月院を経て新高島平駅まで

豊島園から本寿院入り口の角までは前回歩いていますので、今回はここをスタート地点とします。なお実際に歩く時は、交通の便から前回同様に豊島園駅から歩くことになります。ここは現在変則の四つ角になっていますが、古い地図を見ると二股です。その左手の道に入る。この道は「早宮四仲通り」というようです。このあたりも十数年前まではのどかな田園風景の所でした。現在は住宅、アパートの建ち並ぶ静かな住宅地に変身しています。しばらく歩くと右手に本寿院があります。大きな寺で 境内には古い板碑などが残されていますが、昭和12年に板橋の仲宿から移転してきたものです。 間もなく拡幅整備された環状8号との交差点になります。この道は大山街道あるいは富士街道といわれる古い道です。身近な古道としては代表的なものですが、狭い上に車の通行が多く危険なのと排気ガスが多いので歩行、散策に適しているとはいえません。 ここから右手は北町6丁目から7丁目、8丁目となって行き、左手は春日町2丁目から田柄1丁目、2丁目になります。このことから、この道が昔の村境、字境の道であり、現在も町境として、それを踏襲していることが窺えます。
道は若干屈折があり、広くなったり狭くなったりして北上していますが、細い道なので車はかなり速度を緩めて通行しているようです。20分ほど歩くと川越街道と交差します。ここから板橋区になり、そしてすぐ踏切、東上線下赤塚の駅です。
そこから5分ほど行くと 四つ角があり、角に「鎌倉道」の標識が立っています。その標識柱の上に像がありますが、中世の武士の像らしい。最近地元で立てたものと思われます。この道に交わる細道をここから逆に辿ると下赤塚駅の西側の踏切で東上線を越え、赤塚新町1丁目と2丁目の境の道になり、川越街道と交差して行きます。その先は四面道まで断続的に残っている古道のルートです。このルートについては別に取り上げる予定です。 さて、その角を過ぎると、赤塚6丁目1番地と6番地の地点で、左へ分かれる細道があります。板橋区教育委員会編集の「板橋の古道」ではその細道が「かまくら道」であるとしています。坂を下り前谷津川を渡るところで現在古い道はなくなっていますが、現在その先へ行く場合は、少し迂回して今は暗渠で遊歩道になっている前谷津川を越えて大堂の下の道、{石川道、或いは下寺下道という}に出ます。この先の細い坂道を上るとバス道に出ます。すぐ左手には板橋区の赤塚支所がありますが、このバス道を越え細い道へ入って行く。やや下りの道を行くと後で述べる松月院の裏手、東京大仏前の交差点に出ます。 さて、ここで古くから有名な赤塚大堂に寄っていきます。この大堂は松月院大堂とも呼ばれる阿弥陀堂で、大同年間といいますから西暦806年から810年、つまり平安時代の始めの創建と伝えられる板橋区最古のお堂です。かっては七堂伽藍をもつ大寺院でありましたが、永禄4年{西暦1561年}上杉謙信が小田原攻めをした時焼き討ちにあい堂塔悉く焼失し、わずかにこの阿弥陀堂と梵鐘だけが残ったといわれます。この梵鐘は暦応3年{1340年}4月8日の製作銘がある 古鐘で、江戸時代から名鐘で知られ、文人墨客の訪れる者多く、判読する者、拓本をとる者など引きも切らなかったといわれます。このように人を惹きつけた理由は、鐘が古いということもありますが、鐘に彫られた銘文が鎌倉時代の名僧として名高い建長寺の42世、中岩円月の撰であり、天下の名文といわれたことにあったといわれます。また境内には八幡社があり、永禄兵火の時火中の本尊阿弥陀様が出現してとどまった所といわれています。そして大堂の後ろに小さな丘があり古墳の跡であるといわれます。大堂の西側の細道を上っていくと前記のバス道に出ます。このバス道は新しい道ですが、右手に交差点があり その奥に松月院があります。この寺は戦国時代赤塚城主であった千葉氏が菩提寺として中興した寺で、江戸時代には将軍から 朱印地を賜る大寺でした。境内にある「火技中興洋兵開祖」記念碑は、幕末高島秋帆がこの近くの徳丸ヶ原で洋式火砲の訓練を行ったことを記念したものです。
この先古道のルートははっきりしません。区画整理、住宅地開発、大宮バイパスなどの工事で古いものが殆どなくなっているからです。そこで、この先のルートについて有力な二つの説を紹介することにします。
始めに芳賀善次郎著「武蔵古道ロマンの旅」によれば、古道は松月院西側を通り谷を下り、板橋区の美術館、郷土資料館の近くを通り、西高島平駅付近から笹目橋のあたりで荒川を渡っていったものとしています。この資料館の西側の丘には前述の赤塚城がありました。室町時代、古河公方と関東管領上杉氏とが関東を二分して争っていた頃、下総千葉城にいた千葉氏も一族が両陣営に分かれて戦っていました。千葉城は古河公方方の手に落ち、城主の千葉胤直、賢胤は敗死し、その遺児の一人、自胤がこの地に逃れてきてこの赤塚城に拠り、勢力を広げたといわれています。この城跡は資料館から急な崖を登ると平坦な所に出ます。丁度丘陵の先端のような場所で崖下は沼地、湿地であったと思われ防御には格好な地形であったと思われます。
また坂の途中には東京大仏で有名な乗蓮寺があります。この寺は昭和48年に仲宿から移転してきました。現地では新しい寺ですが、かっては板橋宿きっての名刹でその由緒は古く室町時代の創建と伝えられています。 次に前掲の「いたばしの古道」では、松月院の北側裏手から大門諏訪神社の横を通り、坂を下って赤塚河岸に出て早瀬の渡しで入間川{荒川}を渡って行くルートを示しています。しかしこの道は現在殆どが消滅していて跡をたどることはできません。そこで、ここでは一応そのルートらしき道、或いはかってのルートの近くを辿ることにします。
先にこの松月院裏の東京大仏前の交差点まで来ましたが、そこを右へ行きすぐ左折します。右手は松月院の墓地になっています。そこからしばらく行きますと、新しくできた大宮バイパスの横断歩道橋が見えます。その歩道橋の手前に緑地があり、フェンスで囲われた中に諏訪神社境内地と表示されています。そこにはひときわ高い大木がありますが、「こぶ欅」といわれる古木です。ここは後述する諏訪神社で毎年2月13日に行われる「田遊び」といわれる正月神事に関係がありました。その時、神事を行う人々の行列が神社から出てこのこぶ欅を廻って神社へ帰っていくということが行われました。このこぶ欅を廻ることが神事の重要な一齣になっていたのです。私は30数年前にこの神事を拝観したことがありますが、その頃この辺りは、一面の畑と野原で、そこに諏訪神社があり、神社から一の鳥居そしてこのこぶ欅が一目で見える所にありました。今は神社とこのこぶ欅の間を大宮バイパスで隔てられ、一の鳥居もなくなってしまい、どのような段取りで神事が行われているのでしょうか。 なお「田遊び」と同時に「左義長」つまり「どんど焼き」が行われていました。現在、浅草鳥越の鳥越神社で正月8日に行われる「鳥越のどんど焼き」は有名ですが、この諏訪神社で今でも行われているとすれば、数少ない貴重な神事であり民俗行事であるといえます。
さて横断歩道橋で大宮バイパスを越しやや下りの道を北上していきます。諏訪神社の横に出ますが、古い道はもっと西側を通っていたようです。現在その西側の道は集落の先崖で途切れ通行できません。そこで神社の前を通る新しい広い道を行き、坂を下ると高速道路の下に出ます。その先は高島平の大団地です。昔は徳丸原といわれた野原で、明治以降開発された一面の稲田でした。前述した高島秋帆の洋式訓練が行われたのがこの地域で、団地が造られた時そのことにちなんで「高島平」と名付けられたそうです。
団地の中の真っ直ぐな広い道を600メートルほど行くと地下鉄新高島平駅がありますが、そこを過ぎしばらく行くと新河岸川の土手に突き当たります。そこに早瀬橋が架かっています。それを渡った先に荒川があります。その荒川の対岸が埼玉県の早瀬です。荒川も新河岸川も改修工事が行われ堤防が高くなり往時の姿は想像もできませんが、この付近に早瀬の渡しがあったのです。
この先古道は続きますが、その探索は別の機会にします。

 

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